“瀬川”とは何者なのか? 2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』は、“瀬川(せがわ)”が重要なキーワードの一つとなっています。瀬川とは、江戸時代、吉原の老舗妓楼「松葉屋」の看板遊女のこと。瀬川の名跡は、享保から天明まで九代続きました。特に、二代目、四代目、五代目が有名で、『べらぼう』では、後に五代目瀬川を受け継いだ花魁・花の井を小芝風花さんが演じています。 第2話「瀬川とお呼びくださんし」では、安田顕さんが演じる平賀源内(1728年-1780年1月24日)が「ここにも瀬川はいねえのか」と意味深な言葉を呟き、源内にとって“忘れられない想い人”の存在が明らかになりました。天才、偉才の人と称される平賀源内は、江戸歌舞伎最高の女形と評された二代目瀬川菊之丞(1741年-1773年5月4日)と公然の仲でした。 『べらぼう』では二代目菊之丞はすでに亡くなっており、回想シーンを本作の所作指導を担当する日本舞踊家の三代目花柳寿楽さんが演じました。横浜流星さんが演じる蔦屋重三郎(1750年2月13日-1797年5月31日)は、「吉原細見(吉原遊郭の案内書)」の序文の執筆を男色家の源内に依頼したわけです。 江戸時代の染色技術と紺屋の影響力 ファッションのトレンドは、社会や文化の変化、新たな技術や素材の導入などによって影響を受け、常に変化しています。 染色を行う家は、紫根を扱う「紫師」、紅花を扱う「紅師」、茶色系の中間色を染める「茶染師」、藍染を専門とする「紺屋(こうや)」というように、染料の種類によって大きく4つのグループに分かれていました。 戦国時代が終わり、江戸時代はより多くの人々が文化的な生活を享受できるようになると、染物屋の規模も大きくなりました。紺屋は染物屋全般の代名詞となり、江戸、上方(京阪)を中心に繁盛しました。江戸幕府が頻繁に奢侈禁止令を発令する一方で、紺屋達はカルテルを形成するなど、社会経済に大きな影響力を持つようになりました。 奢侈禁止令を一つのきっかけに、「四十八茶百鼠」と呼ばれる茶色や灰色の大流行が生まれ、花魁の衣装などに見られる「友禅染め」も新しい文様形式として発展しました。絹に金糸を織り込んだ金紗(きんしゃ)、刺繍、総絞りといった贅沢な衣装が禁止されたため、それに変わる技法として、糊防染と多彩な色挿しにより、絵画のような自由度の高い図様を表現する友禅染めが発達しました。 二代目瀬川菊之丞の舞台衣装の色「路考茶」 二代目瀬川菊之丞は、寛永から安永に活躍した女形の歌舞伎役者。容姿や所作に優れており、写実的な演技で絶大な人気を誇りました。屋号は濱村屋。俳名は路考。通称は王子路考。ちなみに、王子は“王子様”という意味ではなく、出身地・武蔵国王子村(現在の東京都北区王子)に由来します。 第4話「『雛形若菜』の甘い罠(わな)」で描かれたように、菊之丞の髪型は「路考髷(まげ)」「路考鬢(びん)」、帯の結び方は「路考結び」、菊之丞がまとった着物の色は「路考茶」と呼ばれ、江戸の女性たちの間で流行しました。「路考結び」は現在の「お太鼓結び」の起源と言われています。菊之丞がまとったセンスフルなコーディネートは、粋を追求する江戸っ子たちの注目の的となり、ファッションリーダーのような役割を果たしました。 「路考茶(ろこうちゃ)」は「王子茶色」とも呼ばれ、1766年の中村座で上演された狂言『八百屋お七』の下女お杉役で着用した衣装の色のこと。暗い黄みを帯びた茶色、鶯色に近い渋い緑みの茶色とも言われ、近年のトレンドカラー「オリーブグリーン」にもよく似ています。 「路考茶」の人気は桁外れで、江戸中の女性がこぞって真似をしたと言われます。瀬川菊之丞は三代目以降も人気を博したことから、70年以上にわたって流行色のトップに君臨しました。「路考茶」と同じように、歌舞伎役者の名を冠した色名は、“役者色”と呼ばれ、江戸時代を代表する流行色となりました。 團十郎茶(だんじゅうろうちゃ)と舛花色(ますはないろ) 五代目市川團十郎(1741年-1806年12月9日)は、二代目瀬川菊之丞と同年生まれ。安永から天明にかけて江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げた名優で、実悪系統の役を得意とする一方、女形や道化、侠客などさまざまな役柄を演じた実力派として活躍しました。屋号は成田屋。俳名は梅童・男女川(おながわ)・三升・白猿。定紋は三升。 五代目團十郎は、代々團十郎が用いていた柿色を『暫(しばらく)』の衣装である素襖(すおう)の色に取り入れ、「團十郎茶」という呼び名が定着するきっかけを作りました。素襖は、麻の単衣仕立ての装束で、柿色に市川家の家紋である「三舛(みます)」が染め抜かれています。 「舛花色(ますはないろ)」は、灰みのある淡い青色とも、浅葱色に渋みを加えた淡縹系統の色とも言われます。五代目團十郎は、当時の流行色「浅葱(あさぎ)」に渋みを加えた色を市川家の家芸に用いました。「舛花色」の舛は市川家の家紋である「三舛」のこと。花色は縹色(はなだいろ)の別名なので、市川家所用の縹色という意味です。 五代目團十郎は俳諧や狂歌などの著書も多く、文化人としての一面もありました。柿色を「團十郎茶」に、縹色を「舛花色」にというように、ありふれた色を市川家ならでの色にする手腕は、江戸の人々の感性を大いに刺激しました。 梅幸茶(ばいこうちゃ)と高麗納戸(こうらいなんど) 「路考茶」や「團十郎茶」の前後に流行した役者色を見ていきましょう。 初代尾上菊五郎(1717年-1784年1月21日)は、江戸と上方の両方で活躍した名優の1人。二代目市川海老蔵と同座した『鳴神』の雲の絶間姫(女形)や『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助(立役)などが当たり役として知られています。屋号は音羽屋。俳名梅幸。幼名は竹太郎。 「梅幸茶」は、別名「草柳(くさやなぎ)」とも呼ばれるように、茶系ではなく黄緑系の色です。「路考茶」も黄緑系の色なので似ていますが、当時の「梅幸茶」は通人の間では個性的な色として映り、贔屓客の間で喜ばれたそうです。 四代目松本幸四郎(1737年1802年7月26日)の屋号は高麗屋。俳名は錦江。『鈴ヶ森』の幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)を演じた際に着用していた合羽の色が「高麗納戸」と呼ばれるようになりました。納戸は暗い青色のことを指します。 四代目松本幸四郎は初代瀬川菊之丞門人で初舞台を経験し、その後一時舞台を離れた後、四代目市川團十郎門人となりました。研究熱心でさまざまな役を演じ、幹部に出世しましたが、五代目市川團十郎、初代尾上菊五郎など他の出演者とたびたび衝突しましたが、晩年は穏やかな性格になったと伝えられます。 「高麗納戸」が流行したのは五代目松本幸四郎(1764年1838年7月1日)になってから。五代目は鋭い目つきと高い鼻が凄みを与えることから、実悪では三都随一、古今無類と最大級の賛辞を受け、俗に鼻高幸四郎と呼ばれました。四代目から受け継いた合羽の色と縞模様が評判を呼び、「高麗納戸」「高麗縞」として流行しました。 上方で流行した「芝翫茶(しかんちゃ)」と「璃寛茶(りかんちゃ)」 「路考茶」や「團十郎茶」は江戸で流行しましたが、上方(京阪)で流行した役者色もあります。 三代目中村歌右衛門(1778年3月31日-1838年9月13日)の屋号は加賀屋。俳名は歌七・梅玉・芝翫。雅号は百戯園。幅広い芸風から希代の名役者として知られていましたが、小柄で平凡な容姿であったことから「歌舞伎通好み」とも評されていました。 「芝翫茶」とは、ややくすんだ渋い赤茶色のこと。栗梅(くりうめ)と遠州茶(えんしゅうちゃ)の中間の色と紹介されたこともあります。刈安(かりやす)と棗(なつめ)の実を使い、灰汁媒染(あくばいせん)で染められました。「芝翫茶」も通好みの色とされ、女性からの人気は芳しくなかったようです。 とはいえ、三代目歌右衛門は1813年、大阪心斎橋筋に鬢付け油「芝翫香」を取り扱う店をひらき、日本髪を結い上げるのに必須なものとして人気を博しました。四筋に鐶つなぎを配した柄は、四鐶が芝翫に通じるとして「芝翫縞 」と呼ばれ流行しました。 二代目嵐吉三郎(1769-1821)は、三代目中村歌右衛門とともに上方で人気を二分していました。屋号は岡島屋。俳名は李冠・璃寛。通称は大璃寛。口跡に優れ、立役の花形として活躍しました。 「璃寛茶」は、やや緑がかった黄みの暗い茶色のこと。媚茶(こびちゃ)に藍みを加えた色とも言われます。「璃寛縞」と呼ばれる大柄の縞模様 も流行しました。 江戸時代の歌舞伎役者の人気は凄まじく、彼らが舞台で使った衣裳や持ち物はすぐさま商品化され、江戸や上方で流行しました。歌舞伎役者としての活躍もさることながら、当時の文化に多大な影響を与えました。当時の衣装は浮世絵などを通して見ることができますが、江戸時代を代表する伝統色として現代の私たちをも魅了し続けています。 江戸時代の「遊廓」で大切にされていた「遊女」と客の「恋愛だけじゃない関係」