今年は戦後80年です。日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した後、戦勝国によって戦争犯罪が裁かれることになりました。アメリカ兵の捕虜を殺害したとして、死刑を宣告された男性が、スガモプリズンで6年分の日記を残していました。 【写真を見る】「私は処刑者として最もふさわしい者だ」母を失い志願して米兵を処刑…スガモプリズン 戦犯死刑囚の日記【報道特集】 母を失い志願して米兵を処刑…スガモプリズン 戦犯の日記 79年前、1946年から書かれた6年分の日記。日記が書かれた場所は「スガモプリズン」。戦争犯罪人(=戦犯)が囚われた場所だ。 冬至堅太郎の日記より 「8月30日 金 晴。午後二時入所。所持品検査、健康診断、予防注射等を済ませ、独房に落ち着く。室内設備の広さ約三畳、机の蓋をとれば洗面台、椅子の下は水洗便所。家族と隔つること三百里。故里に同じ虫の音を聞きつつ、第一夜の寝につく」 この日記を書いたのは、冬至堅太郎。 堅太郎の三男・克也さん(71)。父は日記に何を残したかったのか。 冬至堅太郎の三男 克也さん 「残された人たち、家族も含めてですね、特に子どもたちに対して父親がどういう人だったのか、何をやってどうやって、死刑で自分の命が失われるということは覚悟していたので、どうやって死んでいったのか。事実、何があったのかということを残しておきたい、というものがあったのでは」 冬至堅太郎は、福岡市で和文具店を営む博多商人の家に生まれた。母・ウタにとっては、大事な一人っ子だった。 母の愛情を一身に受けて育った堅太郎は、東京商科大学(現・一橋大学)に進学。卒業した年に召集され、1939年、結婚したばかりの妻・安余を残し、25歳で中国へ出征する。 福岡城の跡におかれていた西部軍に主計中尉として臨時召集されたのは、1944年2月。そして、運命の日が訪れる。 1945年6月19日深夜11時すぎ、福岡の町を米軍機が襲う。飛来したB29爆撃機は221機。投下された焼夷弾、約1500トンが市街地を焼き尽くした。 死者・行方不明者あわせて1000人以上。その一人になった母・ウタの遺体に接した堅太郎は… 裁判資料「福岡市空襲の状況」より 「冬至(堅太郎)氏は『お母さん』と一言軽く声をかけられ、泣きくずれました」 西部軍司令部には、九州一円に墜落したB29の搭乗員たちが集められていた。堅太郎は、庭の隅が騒がしいことに気付き、様子を見に行くと、そこで搭乗員たちの処刑が行われていた。 冬至堅太郎 「私は処刑者として最もふさわしい者だ」 自ら処刑を志願した堅太郎は、刀を借り、アメリカ兵ひとりの首を斬った。そのあと、さらに命令によって3人の命を奪った。 日記に記されたスガモプリズンの日々 宣告された判決は 戦争が終わった後、堅太郎はBC級戦犯としてスガモプリズンに収監された。妻・安余が1歳の次男を連れ、面会に訪れる。 冬至堅太郎の日記より(1946年9月26日) 「安余、ありがとう。遠い福岡からはるばると子供を連れ汽車の混雑にもまれての旅はどんなに辛かっただろう、私はただ君の顔を見ただけで有難さに涙がこぼれそうになった。然し私たちの間に張られた金網が光ってかすみがかけたようだ」 スガモプリズンまで面会に行った記憶がある、堅太郎の次男・眞也さん(79)。 冬至堅太郎の次男 眞也さん 「おやじともあんまり会ってないし、小さいころは。だって拘置所にいましたから。死刑囚だった。そういう状況の中で僕を連れて母が、『眞也行こう』って。おやじに会わせたかったのだと思う、母の気持ちとしては」 夫がいない中、安余は文具店を新装開店し、商売を続ける。 冬至堅太郎の日記より 「君は私のため、子供のために必死の戦いをしている。私も闘わねばならぬ。君は世の荒浪と闘う、私は静かに自分自身とたたかふ、何れも此の運命との闘争である」 アメリカ軍によってひらかれた横浜軍事法廷。捕虜の虐待や殺害がBC級の戦争犯罪として裁かれた。堅太郎がいた西部軍で殺害された捕虜は、約40人だった。 西部軍事件の主任弁護人は、アメリカ人のフランク・サイデル。そして堅太郎を担当したのが横浜弁護士会の桃井硑次だった。 冬至堅太郎の日記より 「午前中、桃井弁護士と会う。私の弁護について非常に困難で、処刑者中最悪の条件にあるという。私もそう思います。私は処刑者としての責任は喜んで負いますが、殺人者としての罪はきたくありません」 堅太郎は法廷で証人台に立つことを望んだが、願いは叶わなかった。 判決間近(1948年12月22日)、スガモプリズンの若い看守と堅太郎との会話が日記に記されていた。 看守 「今でも君は米兵に対して怒りをもっているか?」 冬至堅太郎 「いや全然もっていない。今は母はアメリカ人に殺されたのではなく、大きな戦争のために死んだとしか思っていない」 看守 「4人処刑したときはどんな気持ちだったか?」 冬至堅太郎 「志願するまでは本当に怒っていたが、処刑の位置についた時にはただ立派に処刑を遂行することより他は考える余地がなかった。あとで私の妻にこの処刑のことを話したら、妻は『その飛行士たちには奥さんや子供があったでしょう』と言った。僕は言葉がなかった。しかし『これが戦争というものだ』と思った」 この翌日、スガモプリズンでA級戦犯7人の死刑が執行される。死への恐れと緊張が高まっていた。そして… 冬至堅太郎の日記より(1948年12月29日) 「12月29日 水 晴。遂に来るべき判決の日は来た。絞首刑!これが私に与えられた判決である」 次々に執行される絞首刑 朝鮮戦争勃発で状況に変化 戦犯死刑囚となった堅太郎はこの時、34歳。気持ちを切り替え、再審に減刑の望みをかける。安余も嘆願書を集め、署名活動に奔走する。そうした日々の中、死刑を執行される人々が旅立っていく。 アメリカ兵の捕虜3人が殺害された石垣島事件。7人の日本兵が死刑になった。そのうちの一人、28歳で命を奪われた藤中松雄一等兵曹。堅太郎は別れの挨拶に来た7人の様子を日記に書き留めていた。 冬至堅太郎の日記より(1950年4月5日) 「5人目は藤中君。これも笑顔で房の前にあらはれた」 『とうとう行きますよ。仕方がないです』 「どうせゆく先は一緒です。再会を楽しみにしていますよ」 『あなたたちは助かってください』 「いや、どうせやられます。元気でおゆきなさい」 『ありがとうございます、じゃあ』 1950年4月7日、7人の死刑執行。13と書かれた扉の奥に絞首台があった。 その後、スガモプリズンの状況が変わる。6月25日、朝鮮戦争勃発。北朝鮮の軍隊が北緯38度線を越え、南部への進撃を開始。アメリカ軍を中心とした国連軍が韓国を支援する。 冬至堅太郎の日記より(1950年7月11日) 「7月11日 火。西部軍全員減刑の報。今朝のラジオニュースによれば、『西部軍事件七名無期に減刑の旨発表されました』とアナウンスし、それに応じて大勢の拍手がきこえた」 堅太郎は終身刑に減刑。石垣島事件の死刑執行を最後に、スガモプリズンでの処刑はなくなった。その3日後… 冬至堅太郎の日記より(1950年7月14日) 「7月14日、米兵出発。看守から、近日中にここは日本政府の管理に移され、米兵は全部朝鮮へ出動すること、すでに一部は出発したことを聞いた。これらの兵が北鮮軍(北朝鮮軍)の銃火にバタバタと死ぬのかーーと思うと私は可哀そうでならない。彼らもすっかり憂鬱な顔をしている。戦争は嫌だ」 戦犯たちの声を伝えて 戦犯死刑囚の最後の姿 1951年、サンフランシスコ平和条約調印。死刑から減刑された冬至堅太郎は、このころ、処刑された戦犯たちの遺書をまとめることを思いつき、発起人となった。 冬至堅太郎の三男 克也さん 「やっぱり命が永らえて、亡くなった方々のためにも、自分が精一杯やらなくちゃいけないという思いがあったと思います」 1953年に刊行された「世紀の遺書」。スガモプリズンだけでなく、アジア太平洋で戦犯として命を絶たれた701人分の遺書が収録された。 世紀の遺書より 海軍大尉(45) 「子供は軍人にはなすな、時勢が変わってもだ。此は子々孫々に伝へよ。戦争が如何に残酷なものであるかと云ふ事は皆な良く知った事と思ふ」 世紀の遺書より 藤中松雄一等兵曹(28) 「如何なる事があっても、戦争は絶対反対を、命のある限り、子にも孫にも叫んでいただくと共に、世界永遠の平和のために貢献していただきたい事であります」 1956年、10年の月日をスガモプリズンで過ごした堅太郎は仮出所し、福岡へ帰る。そして、妻が守ってきた文具店を手伝い始める。 堅太郎の息子たちは、スガモプリズンがなくなる際の式典の映像を初めて見た。控えめに端に座る44歳の堅太郎。1958年、最後の18人の出所式。 冬至堅太郎の次男 眞也さん 「嬉しそうや、本当に嬉しそうや」 「死ぬことを覚悟したはずだもんね、だからやっぱり経験ないことよね。覚悟したはずよ、だから僕を連れていったんよ、おふくろは」 堅太郎は思い切って福岡の一等地に店を構え、商いを大きくした。地元のテレビ番組で戦争についても語っていた。 冬至堅太郎さん(当時65) 「私はいかに戦時中であるといっても、無抵抗な人間を、自ら志願して四人も斬るなんて言語道断だと。(日本は)加害者としての反省が、国民的な反省がないと思います。実は本当の愛国心というものは、自分の国が周囲の国々から愛される国にすること。だから我々が持っていたかつての愛国心は間違っていたんだと」 堅太郎はアジアからの留学生の支援に力を注いだ。自宅に招き、留学生たちをもてなした。 留学生(1978年) 「いつも冬至さんに御世話になっている。優しい人ですね」 冬至堅太郎さん 「軍人として大東亜戦争に参加した一人ですけれども、その当時、日本の軍隊は、アジア諸国に大変な迷惑をかけてますよ」 1983年、堅太郎は心不全で倒れ、68歳の生涯を閉じた。 堅太郎はアメリカ兵のために地蔵を建立していた。自分が手にかけた人数と同じ4体の地蔵。 冬至堅太郎の三男 克也さん 「国民と国民の間には、人と人との間には何の恨みもないんですよね。そこを無理矢理恨みを持たされて戦わせるという、そういう矛盾が戦争にはある。そういうものを一人一人が感じ取って、戦争を回避していくことが必要だと思います」 外国人観光客も行き交うJR東京駅・丸の内駅前広場。駅に向かって手を広げるこの像は、堅太郎らが戦犯たちの遺書をまとめた「世紀の遺書」の収益金で造られた。 像には何の説明もなく、ただ、ギリシャ語でアガペー「愛」とだけ刻まれている。 冬至堅太郎の三男 克也さん 「『至上の愛』という意味でしょうか。「戦争」というものに対して「愛」というもので応えていくと、像を造った人たちは思ったんでしょうね。愛は世界共通の大事なテーマ。誰とでも愛については語れる、どこの国の人とも語れる」 若い人たちが記念撮影をしていた。愛の像は静かに平和を訴えている。