誓約書を書かされ、ミスしたら殴られる 内海智覚氏(27歳)は、同じお笑い芸人の先輩・Mに誘われ、名古屋から上京し、新宿のある焼肉店「李苑」でアルバイトをはじめた。当初は問題なく進んでいたが、働き始めて3ヵ月ほどで、Mから暴行を受けるようになる。 この内海氏がMから受けた行為は、労働基準法の中で「幻」と呼ばれる--暴行、脅迫等による強制労働を禁じた--「第5条」が適用されるかどうかの争点になる事態にまで発展する。新店舗に移動した去年4月のことだった。 「ランチ時に『盛り付けが遅い』と怒鳴られ、太ももを数発蹴られました。翌日には『仕事を完璧にします』という誓約書を書かされ、何か不手際があるたびに、『誓約書(に書かれていることが)、できてないよな』と、従業員用のロッカーで胸倉をつかまれて壁に押し付けられたんです。 あるときは誓約書の内容を守れていないことを理由に、左頬にビンタを数発と、グーパンをくらったこともあります」 人手不足に苛立っていたMは、内海氏に「5月末までに新しいスタッフを2人、連れてくるように」と命令口調で伝えた。内海氏が「(2週間で2人は)無理だから1人にします」と答えると、Mの怒りは最高潮に達したのだ。 Mは「もういい。お前殺すわ。スマホの電源切れ」と言い放ち、内海氏がスマホの電源を切っている間に、防犯カメラの電源を切ってしまう。 「防犯カメラとスマホの電源が切れているのを確認したMは、『覚悟せいよ』と言って、A4サイズのコルクボードで頭を叩いてきました。その後も、『責任とれ!謝れ!』と叫びながら、ビンタとグーパンと蹴りを私に浴びせ続けました。 恐ろしくなって土下座して謝りました。でも顔を上げた瞬間、顔面のど真ん中めがけて膝蹴りが飛んできたんです。その後も蹴りが10発以上続き、大量の鼻血が出てしまいました」 血を見たことで、Mの怒りは一瞬おさまる。しかし、謝罪はされず、「お前のせいで手をケガした。指3本分だから、治療代くらい出せ。給料から交通費込みで2万(の天引き)でどうだ」と言い掛かりをつけてきたという。あっけにとられる内海氏の様子に気づくことなく、「悪いと思ってたら、お前から(治療代の)提案してくるやろ」と衝撃の発言まで放った。 内海氏が黙っていると「お前の口から言え」とすごまれ、恐怖のあまり「すみません! 払わさせてください。申し訳ございません」と言い、この場はおさまったという。 バイトをはじめ8ヵ月-暴力指導は終わりを迎える 約4ヵ月後の9月21日、また同じような「暴力指導」が行われる。営業終了後、Mに呼び出された内海氏は23時から0時半までの1時間半にわたり、説教されながら殴られたという。しかし、今回の件でMの暴力指導は終わりを迎える。 内海氏の母親が、Mが暴力をふるう現場を目撃してしまうのだ。 「たまたま出張で名古屋から東京に来ていた母が、僕に連絡を入れていたんです。僕のスマホは電源が切られていて全然繋がらなかったので、不思議に思った母はバイト先まで来ていたんです」 店の前で待つ母親は、店から漏れる大きな怒号を耳にする。不安を感じ中に入ると、Mがまさに暴力をふるっている最中だったという。そして、内海氏の母親は冷静にMを問い詰め、問題は発覚した。 理不尽な要求に従い続けていた理由 問題行為を繰り返し、理不尽な要求を行っていたMに対して、なぜ内海氏は従い続けていたのか。内海氏は当時の心境を吐露する。 「実は、ひどい暴行を受けた5月18日に、Mから『ごめん。もう一切殴らないわ』と言われていたんです。翌日には謝罪のLINEも来ました。 暴力がおさまるという安心感と、逆らったら何をされるか分からないという恐怖から、辞めたいと言い出すことはできませんでした。今思えば、完全にマインドコントロールされていたんだと思います」 誰かに助けを求めることは考えなかったのだろうか。 「5月18日の夜に、誰にも言わないことを約束させられたんです。『辞めるんだったらお前のせいでかかった損害40万円(9月には120万円に増額)を払え。あと、お前の代わりを連れてこい』と言われていたので、後ろめたさもあり、誰にも相談することができませんでした」 逃げ出せなかった理由に、内海氏の経済状況も深く関わっている。 内海氏は名古屋から上京して一人暮らしをしながら、漫才の稽古場所として店の近くにアパートを1部屋借りていた。この部屋はMも使用していたので、当初は内海氏が3分の1である2万円をMが残りを負担していたという。 しかし、5月からは「俺が負担する必要ないから家賃もお前が払え」と言われ、結局内海氏は、自分の部屋と稽古場所の2部屋分の家賃を払っていた。 また、アルバイトだったはずの仕事も6月から勝手に業務委託契約に切り替えられてしまい、書類の締結も交わさないまま、支払いはうやむやになっていたのだ。 専門家の試算によると、残業代と固定金の未払い分だけで300万円にも上るという。 労働基準法第5条が照らす未来へ 地下の焼肉店で殴る蹴るの暴行を受けながら、奴隷のごとく長時間労働を強いられる--まるで漫画・カイジの世界だ。 冒頭で紹介した、幻の「第5条」は適用されるのだろうか。名古屋第一法律事務所の長尾美穂弁護士が解説する。 「労働基準法第5条は労働者の人権を守るための、いわば『最後の砦』。奴隷的な働き方を絶対させない強い力があります」 条文では、「使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によつて、労働者の意思に反して労働を強制してはならない」と定められているが、コンプライアンスの重要性が注目されている最近では、適用される事例はほとんどないそうだ。 「ほとんどの雇用主はもっと厳しい労働基準法を気にしているので、第5条が適用されるまでいくことはほとんどありません。でも、今回の事態は適用される可能性はあると思います。これほど悪質なケースは、私も初めて見ました。 第5条が適用されるのは、暴行や脅迫を用いて、本人に辞めたいという意思があるにもかかわらず、辞めさせないといった行為。今回では、暴行の立証がどこまでできるかがが論点になってくるでしょう」 Mは防犯カメラを切り、スマホの電源を切らせるなど、証拠を隠蔽してきた。しかし、内海氏が店にいたことを示すGoogleの移動履歴、怪我の診断書、そして母親の証言は、内海氏が受けた暴行を裏付ける証拠となる。 労働基準法第5条違反となれば、「1年以上10年以下の懲役または20万円以上300万円以下の罰金」という罰則がMに科される(労働基準法第117条)。他の労働基準法違反の多くは「6ヵ月以下の懲役または30万円以下の罰金」(労働基準法第119条)としている中で、これは最も重い罰則だ。 現在、内海氏は放課後等デイサービスで働きながら、Mに対する法的措置を進めているという。 「当時の僕には『自分のことは、自分で決めな』って声をかけてあげたいです。僕のような被害者は、きっと他にもいるんじゃないかな。労働基準法第5条は本来適用されてはいけないものです。同じような被害に遭われる方が一人でも少ない世の中になることを願います」 内海氏は少し明るい表情を見せ、力強く語った。 <協力/TNTパートナーズ総合法務事務所> 【前編を読む】「盛り付けが遅い」だけで太ももを蹴られる…地下の焼肉店で起きた「奴隷労働」の一部始終