いま、日本は深刻な米不足に陥っている。原因は様々あれど、深刻化する農家の後継者不足も影響を及ぼしているだろう。農林水産省の「2020年農林業センサス」によると、農業経営体の約7割が「5年以内に農業経営を引き継ぐ後継者を確保していない」と回答。経営主が70歳以上でも、「後継者を確保している」経営体は29%で3割に満たないのが現状である。 【画像】米利休氏とじいちゃんが育てた米「利休の心」 農業がそうした危機的な後継者不足にある中、米農家である祖父の跡を継いだ若者がいる。1998年に山形県で生まれ、東京大学工学部を卒業した「米利休(こめのりきゅう)」氏だ。 「勉強を頑張らないと農業しかできなくなるよ」 そう言われて育ったという米利休氏は、「出世して、いい生活を送りたい」「周りに勝つことが最も重要」と信じ、勉強に打ち込んだ。東大に進学後、在学中にSNSコンサルティング業などを展開。ただ卒業後も同じ事業を続ける気はなく、将来を見据えたやりがいのある仕事を探していた。 そんな矢先、故郷に帰って直面したのは「続ければ続けるほど借金」という祖父の米農家だった。東大卒なら高収入が期待できる就職先もあっただろうが、あえて赤字まみれの米農家を継ぐことにした米利休氏の、決断の背景にあるものとは──。 米利休氏が「稼げる」農業を実現するためのチャレンジを綴った『東大卒、じいちゃんの田んぼを継ぐ 廃業寸前ギリギリ農家の人生を賭けた挑戦』(KADOKAWA)から、同氏が廃業危機の米農家を継いだ理由をお届けする。(同書より一部抜粋して再構成)【全4回の第1回】 * * * 続ければ続けるほど赤字だという事実を知ったときに僕が思ったのは、ここまで継承されてきた農業をやめることで、小さな頃から見てきた風景や、じいちゃんが培ってきた稲作の技術が途絶えてしまうのは悲しい、ということでした。どうにか廃業を回避することはできないものかと考えるようになり、農業の現状についてきちんと調べてみることにしました。 そのなかでわかったのは、農業従事者は平均年齢が68歳ということ。若い世代の農業離れにより、高齢化が進んでいました。僕の地元でもその傾向は顕著で、高齢の農業従事者が多く、廃業する方も増えていました。このままいけば10年後には、わが家の近所で農業を続けられている人はほとんどいないのではないか、というような状況でした。 とはいえ、もしここで本当に廃業してしまったら、借金だけが残ります。農機具は買ってくれる方や業者さんが見つかると思うのですが、農地に関しては継ぎ手不足で、借りてくれる方も買ってくれる方も見つかりにくい状況。いつかまた米づくりがしたいと思っても、やり直すのはかなり厳しいことになるはずです。 今、使える設備がギリギリ残っているうちに、農業を継ぐ余地があるのではないか? いつからか僕はそう考えるようになりました。 農業はまだ可能性を秘めている わが家の廃業危機をきっかけに、日本の農業の現状が見えてきたことで、僕はかえって農業に興味を持つようになりました。あらためて周囲に目をやると、地域を守っていくために農業を続けている方も多くいらっしゃいます。このまま農業をたたむのではなく、もしかしたら自分が継いで大きくしていくという選択肢もあるのではないか。廃れていく業界かもしれないけれど、やり方次第では赤字を解消するだけにとどまらず、利益を得られる可能性があるのではないか。そう考えるようになっていったのです。 農業法人の社長さんにも率直に尋ねてみたところ、「農地面積を拡大して生産効率を高めていくことができれば、今からでも農業で儲けることはできるだろう」という話を聞くことができました。人口減少や食文化の変化により、さまざまな農作物の需要が下がっていることは事実としてある一方で、それ以上に深刻なのは、生産者がいなくなることで生産量が減っていくこと。裏を返せば、生産量を確保できればその需要が高まる可能性があることは、ある程度予想できるところでもありました。 この先数年は不遇かもしれないけれど、10年くらいの長い期間で考えたときに、それなりにうまく回るようになれば、ビジネスとして成立するという期待がもてたことで、農業を継ぐのもアリなのではないかと思い始めました。 農作物を生産する農家がどんどん減っている今、自分が生産者になってその一端を守っていけるのだとしたら、大きな地域貢献になるかもしれません。それは、学生時代に自分の将来を思い描くなかで指針となっていた、「就職せずに、自分で自分の道を切り拓く」「人の役に立てる仕事で食べていく」という思いが、同時に叶えられる事業でもあることに気づきました。 もちろん、就職したほうが収入は多いかもしれませんし、何より安定していたでしょう。けれども、もしかしたら農業のほうがより儲かる可能性もゼロではないわけです。この時点ではまだ、将来的にどう転がっていくのか、想像もつかなかったのですが、少なくとも生活できないことはないと感じられたことから、やってみようと思えました。その結論が出たのは2023年から2024年に年が変わろうとする頃のことでした。 心配する様子を見せながらも農業継承を喜んでくれたじいちゃん 僕は、子どもの頃から農業に決していいイメージを持っておらず、なんなら農家にならずに済むように進路を決めていました。そのため、それを180度ひっくり返して「農家をやります!」と宣言することは即決だったわけではなく、それなりに時間を要しました。僕にとってその決断は、今までの人生を否定することであり、プライドを捨てることでもあったからこそ、悩み、迷いました。 じいちゃんの米づくりを継ぐと決めたときの家族の反応はさまざまなものでした。一番意外だったのは、父かもしれません。子どもの頃に「勉強を頑張らないと、農業しかできなくなるよ」と僕に刷り込んでいた父。農業法人の社長さんがわが家の経営を心配して話を聞きに来てくださったときに、数字に強くないじいちゃんだけでは心許ないと、父も同席していました。やり方によってはチャンスがあるという社長さんの話を聞いたことで、父の農業に対する考え方が変わったようです。 父も僕と一緒で、大きな収益にはならないかもしれないけれど、食べていくのに困らない程度の運営はできるという感覚になっていました。とはいえ、自分自身は農業を継がずに就職していますし、農業の不利な面もよくわかっていることから、中立的な立ち位置にいました。本人が望むなら継いでもいいし、継がないという気持ちもわかるから何も言わない、という感じで僕の話を聞いてくれました。 母は、どちらかというと反対派でした。じいちゃんが苦労しているのを近くで見ていますし、2023年に農業を続けるために借金をしなければならないという状況に直面したときには、やはり思うところがあったようです。僕が継ぐか継がないかを迷っているときから、一貫して「儲からない仕事なんて絶対にやるな」というスタンスでした。きっと農業を継ぐことに反対しているというよりは、子どもが自ら苦労する道に進むかもしれない状況を黙って見ていられない、と心配する気持ちが強かったのだと思います。 じいちゃんに関しては、うれしいと思ってくれたみたいです。僕が農業を継ぐと決めたタイミングで、実際に継ぐとなった場合に、経営の受け渡しまでの流れをどういうふうに進めていくのかといった具体的な話を、父とじいちゃんと3人でしたことがありました。その会議の前に、両親には農業を継ぎたいと話していたので、父からじいちゃんに「孫(僕)が継ぐって言ってるんだけど、どうだ?」と切り出したのです。普段はあまり多くを語らないじいちゃんですが、このときには、うれしいと言葉にしてくれて、僕も絶対に立て直したいと強く思いました。 ちなみに、当初は息子を心配するあまり、反対の姿勢を見せていた母でしたが、慣れない作業に四苦八苦する僕を見て、頑張っているように思えたのかもしれません。少しずつ気持ちに変化が表れたようです。米利休として発信するSNSが伸び始めてきた頃には心配がなくなったみたいで、今では「もっと頑張らないとね」と背中を押してくれる強い味方になりました。 (第2回に続く)