「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」「女太閤記」など国民的ドラマに続々出演し、「ぴったんこカン・カン」などのバラエティでもパワーを見せつけてきた泉ピン子さん。 18歳で漫談家としてデビューするが、20代もキャバレー巡りをしていて「もう駄目かな」と思った時期もあった。そんなピン子さんをずっと支え続けていたのが、でき愛してくれていた父親だったという。 かたや、母親の存在はなかなか辛いものだったという。ではそのようなしんどさをどのように乗り越えたのだろうか。 様々なピンチをチャンスに変える活動、略して「ピン活」について赤裸々に綴ったエッセイが『 終活やーめた 元祖バッシングの女王の「ピンチを福に転じる」思考法 』より特別抜粋にてお届けする前編では、小学校4年生のときに近所のおばさんから実の母ではないことを告げられたことをお伝えした。 後編ではそう知った後、芸能一家に育ったピン子さんが憧れた大女優や、この家に生まれてよかったと思っていることをお届けする。 18歳でデビュー、キャバレー回りをする日々 18 歳で、当時、一世を風靡した漫談家の牧伸二さんのところに弟子入りしたんですが、別に芸を教わったわけじゃない。漫談家として地方のキャバレー回りをする日々が始まって、そこでは自分しか頼るものがなかった。テレビのレポーターとして人気者になるまで、8年間、地方のいわゆる「ドサ回り」をしたけれど、あの経験がなかったら今の自分はないって言い切れるほど、鍛えられた。若い頃の苦労は買ってでもしろ、なんていうけど、あの地方巡りの日々は、私の原点になったと思っています。 女優になってからは、役に合わせなきゃならないし、和装も多かったから、好きな髪型にチャレンジできなくなったけれど、「ウィークエンダー」のレポーター時代は、パーマをキツめにかけたショートヘアでした。当時は、越路吹雪さんの髪型にものすごく憧れていて、越路さんのヘアを担当している人のサロンに通ったりして。そのあとは、当時「四天王」と呼ばれた宮崎定夫さんのお世話になりました。四天王には他に、黒柳徹子さんの玉ねぎヘアを作った須賀勇介さんなんかもいらして、髪を素敵にアレンジできるヘア・ドレッサーは、芸能人のみならず、一般の女性からも憧れの的だったんです。 越路吹雪さんに憧れて それにしても越路さん、カッコよかったなぁ。最初は宝塚の男役からキャリアをスタートさせたのに、私が宝塚に連れて行かれてた頃は、もう退団なさっていて。私は越路さんが宝塚の大舞台に立っているのを見ることはできませんでした。でも、私が漫談家になった頃に、日生劇場でリサイタルを始めて、評判が評判を呼んで、開催期間が年々長くなっていったんです。あの時代に、1300席以上の会場を春と秋に、それぞれ1ヵ月以上満員にして、「チケットが取れない!」なんて騒がれたんだから。しかも舞台に立つのはたった一人。 もちろん、岩谷時子さんという素晴らしいマネージャーがいて、優秀なバンドもついて、作曲は旦那様が担当して、演出には劇団四季の浅利慶太さんまで関わったっていうんだから。当時の日本の芸能界の粋を集めたようなリサイタル。昔からいろんな憧れの先輩がいましたが、こと音楽に関しては、越路さんほど憧れた人は後にも先にももう出てきません。 私は、なんだかんだで芸能の家系に生まれてしまって、苦手なお稽古も色々させられたけれど、今になってよかったなと思うのは、「本物」を見極める目だけは養われたかもしれないってこと。「自分には無理」と見切りをつけることも含めて、私は、自分がいいと思った人やものは、はっきりと「本物」って言える。反抗もしたけど、その点に関しては、両親や親戚には感謝しています。 【後編】芸能一家に育った泉ピン子が母に厳しくされても「よかったと思っていること」