大惨事を引き起こした人間心理の「破壊的な力」…人類の平和のために求められる”心構え”と”制度”

人種差別、経済格差、ジェンダーの不平等、不適切な発言への社会的制裁…。 世界ではいま、モラルに関する論争が過熱している。「遠い国のかわいそうな人たち」には限りなく優しいのに、ちょっと目立つ身近な他者は徹底的に叩き、モラルに反する著名人を厳しく罰する私たち。 この分断が進む世界で、私たちはどのように「正しさ」と向き合うべきか? オランダ・ユトレヒト大学准教授であるハンノ・ザウアーが、歴史、進化生物学、統計学などのエビデンスを交えながら「善と悪」の本質をあぶりだす話題作『MORAL 善悪と道徳の人類史』(長谷川圭訳)が、日本でも刊行された。同書より、内容を一部抜粋・再編集してお届けする。 『MORAL 善悪と道徳の人類史』 連載第115回 『同調圧力には「悪魔」が潜んでいた…清廉潔白に生きてきた人であっても“殺人鬼”に変えてしまう残酷な力』より続く 「根本的な悪」と「陳腐な悪」 1961年、エルサレム地方裁判所で裁判にかけられることになっていたアドルフ・アイヒマンに関する記事を『ニューヨーカー』誌に書くためにハンナ・アーレントがイスラエルへ向かったとき、知識人たちはアイヒマンを悪魔のような極悪人と断罪するレポートが書かれるのを待ち望んでいた。ところが実際に完成したのは、近代で最も残虐な犯罪を事務員のごとき慎重さで計画した公務員のお涙頂戴物語だった。そしてアーレントはその記録のタイトルに道徳哲学において最も印象的で、最も正確に的を射たフレーズを加えた-「悪の陳腐さ」だ。 この言葉を通じて、アーレントはキリスト教の「原罪」という概念だけでなく、哲学の伝統にも異を唱えたことになる。カントですらまだ、人間は「曲がった木」でできていて、そこから「完全にまっすぐなものは切り出せない」と考えていた。それどころか、むしろ人間はもともと道徳が要求する義務に反する傾向があるため、「根本的に悪」だとみなしていた。 根本的な悪と陳腐な悪の重要な違いは、根本的な悪が自制の論理に従う点だ。人の腐敗や堕落は、自制心、規律、意志の力のみによって克服されるという考え方である。しかし20世紀に入ってからは、人間に欠けている部分は決して補填や克服されることがなく、回避もしくは抑制するのがやっとであるという考え方が主流になりつつある。個人に向けて、自分というものをしっかりもって徳高く生きるのを求めるのではなく、社会に対して、極度の状況圧力がそもそも生じないように構造や実践や制度を形づくるよう要請するようになった。そのような圧力の毒に、個人は逆らえないからだ。もし私たちが、そのような圧力にさらされているにもかかわらず悪行の協力者にならずに済んだ場合があったとしても、それはまず間違いなくただの幸運だったと言える。したがって、共犯者になる機会をそもそも生じさせないことが重要になる。 人の性格特性は状況による 社会心理学の分野では、1960年代から「状況主義」という考え方が確立している。どんな状況でも変わらない確固たる性格特性はどうやら存在しないようだ。いくら探しても見つからない。変わらぬ本質として、勇敢な、臆病な、あるいはケチな人などいない。誰一人として善人でも悪人でもないし、律儀でもぐうたらでもない。人格とははるかに断片的で、具体的な状況に強く結びついている。知人とフリーマーケットにいるときはケチだし、初対面の人とディナーへ行くときは気前がいい。およそ50年前から社会心理学者らが、私たち人間の行動を左右する最大の要因は、そうした外部の状況であることを証明しようとしている。 ある有名な研究を通じて、ある人が他人の落とした紙を親切心から拾い上げるかどうかは、その人がその前に公衆電話で(わざと置き忘れた)硬貨を拾ったかどうかで大きく変わることを証明している。そのような実験が繰り返し行われ、外部状況が人の行動に強く影響することを実証してきた。 悪が陳腐であるという考えには、どこかホッとする部分がある。世界が根本的な悪人と根本的な善人に二分されることがないので、永遠に決着がつかない闘争を続ける必要がない。世界は善も悪もないただの人で成り立っている。人はほかの自然と同じで、状況によって形づくられる。 その際、状況によってはうまくいくこともあるし、失敗することもある。これは何も、おぞましいことをする悪人は存在しないという意味ではない。私たち人間は(少なくとも基本的には)変わることができる、そして私たちの誰一人として社会にただただ迷惑をかけるだけの中身が腐った極悪人ではない、という意味だ。 社会はいつも「道徳的崩壊」の瀬戸際 しかし、悪の陳腐さには憂慮すべき点もある。「そして“自ら招いた退行”という要素とともに、我々が20世紀に文明の崩壊として経験した何かが始まった。それは“野蛮への回帰”などでは決してなく、自らのことを当時の基準で“文明的”とみなしていた全国民における道徳の崩壊という、新たに誕生した、そしてその後は絶えず存在することになる可能性だった」。 ホロコーストとグラーグ、カンボジアのクメール・ルージュが設けたキリング・フィールド、ルワンダにおけるツチ族の虐殺、スレブレニツァの虐殺、あるいはアブグレイブ刑務所における出来事などが、私たち人間から憎しみや暴力の本能が消えてなくなることは決してなく、テオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーの言葉を借りるなら、「完全に啓蒙された」社会でさえ、つねに道徳的な崩壊の瀬戸際にあることを、はっきりと証明している。 20世紀にはモラルに根本的な変革が起こり、人間の破壊傾向を可能な限り囲い込み、和らげ、制御することに主眼が置かれるようになった。そうすれば、平和という穏やかな翼の下で兄弟姉妹として暮らす人類というかねての夢が、いつか実現できるかもしれない。スタート時の状況は説明するまでもないだろう。20世紀の半ば、人類は想像を絶する大惨事を引き起こしてしまった。これからは、非人道的な残虐行為への誘惑に打ち勝つための“心構え”と制度が必要になってくる。 これまで、そのような対策はうまく機能しなかったことも多い。20世紀の半ばを過ぎて初めて、人間心理の破壊的な力を長期的に封じ込める試みが、真剣かつ包括的に行われるようになった。それを成功させるには、人間の破壊傾向をしっかりと見据え、なぜそのような道徳的荒廃が生じてしまったのかを理解する必要がある。 【前回の記事を読む】同調圧力には「悪魔」が潜んでいた…清廉潔白に生きてきた人であっても“殺人鬼”に変えてしまう残酷な力

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