被爆を語る 広島・長崎への原爆投下から今夏で80年を迎える。 被爆地にゆかりがある著名人に、これまでの経験や平和への思いを聞いた。 ◇ 被爆したのは10歳の時の夏休みでした。爆心地から3・6キロにある長崎市の自宅2階で宿題の絵を描いていたんです。出来はどうだろうかとガラス戸に絵を立てかけ、後ろに下がった途端、ピカッと百万ものマグネシウムをたいたような光に包まれました。「こんなに良い天気の日に雷が」。そう思った数秒後、世界が壊れたような爆音がとどろき、家のガラスが割れました。 運良く大きなけがはありませんでしたが、防空壕(ごう)へ逃げる道中の阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄は忘れられません。服がぼろぼろになり、頭からつま先までやけどした人が大勢いました。防空壕から弟たちの疎開先の村に避難する途中、坂道で振り返ると、長崎市内は火が燃えさかっていました。 玄関が大破した自宅に戻りました。髪の毛が抜け、体が焼けただれた女の人がよろよろと畳の部屋に寝転がってきました。私を見つめ、腫れ上がった唇で「いずをください……」と言ったんです。水のことと分かり、土瓶に入れた水を口に注ぐと、女性は手を合わせて亡くなりました。 終戦を迎え、親戚が住んでいた爆心地近くの浦上地区を訪ねました。祖母は原爆投下時には家におらず無事でしたが、伯母たちは犠牲になりました。一帯は焼け野原で家も何も分からなくなっていたんですよ。学校の運動場では焼け死んだ人たちが組まれた廃材に投げ込まれ、火葬されていました。恐ろしい風景でした。戦後は髪の毛がばんばん抜け、貧血で倒れることもよくありました。 戦時中はとにかく軍国主義で、演劇もレコードもファッションも全て統制されました。元々カフェを営んでいた自宅の隣には劇場、正面にはレコード店があり、生まれながらに芸能の世界に入るような素地がありました。これまでの私の活動は、軍が「ゼロ」にしたものを取り戻すためのものだったんです。 原爆で生き残った青年を歌った「ふるさとの空の下に」や反戦歌「亡霊達(たち)の行進」も作りました。戦争や原爆のことはやっぱり私の根っこにあるんです。 映画「祈り—幻に長崎を想(おも)う刻(とき)—」(2021年公開)では浦上天主堂の被爆マリア像の声を、被爆者救護にあたった看護学生を描いた映画「長崎—閃光(せんこう)の影で—」(今夏公開)では語りを担当しています。被爆後の浦上を見ていたわけだから、「天からのお仕事だ」との使命感で引き受けました。 世界をみると、インドとパキスタンの間でも、また軍事衝突がありましたね。殺し合い、憎み合う背景にある経済や宗教のことについても、世界中がもう一度考え直した方が良いと思います。 最近は子どもたちがスマートフォンばかり見て、デジタルの世界を発端にした事件も起きているでしょ。映画「モダン・タイムス」では、チャールズ・チャップリンが機械の歯車に巻き込まれる描写がありますが、文明の発展は人間らしさを失わせることにもつながると思います。若い世代には、平和な世界の実現に向け、人間同士で向き合い、美しい文化に触れて心を豊かにしてほしいです。(聞き手・美根京子) 広島・長崎 21万人が死亡 1945年8月6日、米軍のB29爆撃機が広島市に原子爆弾を投下。3日後には長崎市にも落とされた。爆心地の地表面温度は3000〜4000度と推定され、熱線や爆風、放射線などにより45年末までに広島で約14万人、長崎で約7万人の計約21万人が死亡したとされる。生き延びた人たちもがんや白血病、甲状腺障害といった原爆症の症状に苦しんだ。 厚生労働省によると、国内の被爆者健康手帳を持つ人は昨年3月末時点で10万6825人で、平均年齢は85歳を超えている。 みわ・あきひろ 1935年長崎県生まれ。国立音大付属高校を中退し、16歳で歌手デビュー。作詞作曲した「ヨイトマケの唄」などが大ヒットした。67年、劇団天井桟敷の旗揚げ公演で主役を演じ、以後、幅広い分野で活躍している。2018年度には東京都名誉都民の顕彰を受けた。 ◇ 「被爆を語る」は随時掲載します。