第二次世界大戦終戦の2日前、現在の千葉県山武市の駅で貨物車が銃撃され爆発。駅員など40人以上が犠牲となりました。戦後80年を前にした昨年、2024年の夏、地元で起きた戦争被害の記憶を風化してしまわないようにと、地域住民による勉強会で当時のことを知る人がそのときの状況を語りました。 ■終戦直前 列車に銃撃、爆発 終戦2日前の1945年8月13日、午前11時40分頃、当時の国鉄成東駅に止まっていた貨物車に、米軍艦載機グラマン4機による機関銃攻撃がありました。貨物車には高射砲4門と弾薬が搭載されていて、これが炎上。駅職員や兵士が消火を試みたものの、午前11時58分に爆発しました。 地元・山武市やJRに残る記録によりますと、貨物車を切り離す作業や消火作業などを行っていた駅長など、国鉄職員15人と将兵27人が犠牲になりました。国鉄職員の中には10代の少年少女8人も含まれていたということです。 駅周辺にも被害が出ていたものの、住民はなぜ駅で爆発が起きたのか知らなかったといいます。 ◇ 以前は、成東駅前で市の関係者や議員らも出席した慰霊祭が行われていました。しかし、遺族の意向や新型コロナの影響で規模は縮小。去年、2024年は、JR成東駅の職員のみで花束と黙とうを捧げました。 慰霊の行事が行われた成東駅前には、「礎」と記された追悼の碑があります。 十三回忌となった際に建立されました。 また山武市内の寺には、爆発により死亡した国鉄職員を慰霊する「成東駅殉難者之墓」。 別の寺では、爆発で死亡した将兵らを慰霊する碑が建立されています。 終戦直前に成東駅で42人が犠牲となった出来事。写真や痕跡などはほとんど残っておらず、慰霊碑や資料などが何があったのかを示しています。 ■成東駅の戦争被害 記憶をつなぐ そんな中、去年の夏、地元の駅で起きた戦争被害の記憶を風化してしまわないようにという動きがありました。 8月27日(火)、千葉県山武市成東にある「下町青年館」で開かれた学習会。 終戦直前、成東駅で起きた被害の大きい列車への攻撃。それが、この日のテーマでした。 集まった地域住民などおよそ40人を前に、自分が見たり聞いたりしたことを、当時、国民学校の5年生だった3人が語りました。 「自分は軍国少年」だったと話すのは菊池昭郎さん。その日は、祖父と一緒に家にいたという菊池さん。石蔵の窓から川沿いを上がってくる戦闘機を見たといいます。 「最初は日本の飛行機だと思って外に出ていました。あれ、違う。日の丸はなし、緑色の四角のグラマンでした。兵隊のマフラー巻いた兵隊の姿がはっきり見えるんです。うちの屋根すれすれに飛んで」「はっきりグラマン、この肉眼で見ました」 その後、「どーーーん」というものすごい音が。 「ガラスというガラスは全部割れました。爆風が入って屋根が突き抜けましたね」「しばらくしてからでしょうか、医院にどんどん死体とかけがした人が集められて、国民学校5年生ですから近くにはよれませんが、ただ、けが人と死体が集められているということだけは遠くから見ました」 竹内規久枝さんは、学校に出入りしていた子供好きの軍隊トップ、宮田少尉のことについて話しました。 「当時少尉だった宮田さんとも知り合いになって、私たちが宮田さんを見つけ『宮田さんー』というと、宮田さんもちょっと声をかけてくださる。今考えると、それくらいのお子さんがいらしたのかな、そんなことも思います」 当日、自宅近くにいたという竹内さん。いつもの雰囲気と違う宮田さんの姿を見かけました。 「宮田さんが小学校の方から自転車を飛ばしてくるのが見えて『あ、宮田さんだ』と思って。いつもだったら『宮田さん』って声をかけるんですけど、子供心にも声をかけられないようなすごい緊迫した雰囲気で走ってこられて、そのまま道を駅の方へ向かって行かれるのを黙って見送った記憶があります」 宮田さんの姿を見たのは最後だったといいます。 小川公平さんは、爆破があった翌日の14日、成東駅に行ったといいます。 「駅は建物が全部なくなっていてところどころで煙がちょろちょろ、駅前には切符が散らばっている」「田んぼがえぐれて桜の木が幹だけ残って枝が全部飛んで、跨線橋も骨組みだけ残っている」 小川さんは、人から聞いた話で印象に残っている話について、こうも話していました。 「看護婦さんってすごいよね。バケツを持って長い腸が散らばってるのを拾ってた。それから靴を拾ったら足が入っていた、という話を聞ききました」 ◇ この学習会は、地域の老人会「下町ゴールドクラブ」の活動の一環で開かれ、「成東駅爆破」を扱うのは今回が初めてだといいます。 戦後80年を前に、地元・成東で起きた戦時中の出来事を改めて知ることで、戦争など世界情勢に不穏な動きが見られる中、平和は大事なことだと感じてもらいたいとしています。