明治40年(1907)、「10万の生霊と20億の戦費」といわれる犠牲を払って獲得した南満洲の地に誕生した「南満洲鉄道株式会社」。この一鉄道会社は、「陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行する」実質的な国家機関として大陸政策を牽引しました。 しかし、必然的に政官軍の縄張り争いと対中・対ソ事情の変化、そして場当たり的な政策の影響が直撃する位置に置かれた組織は、図らずも近代日本を体現する存在として日本の支配政策のお粗末さを象徴する存在として現代に伝えられています。 加藤聖文『満鉄全史 「国策会社の全貌」』では、日露戦争から敗戦まで「日本の生命線」の表舞台に立ち続けた組織の足取りを正確にたどり、「国策」という言葉が包含する曖昧さと無責任さを炙り出しています。 本記事では、加藤聖文『満鉄全史 「国策会社の全貌」』(講談社学術文庫)より、1931年9月18日の「満州事変」が勃発当初から、満鉄と関東軍の関係がどのように変化したのか詳しく見ていきます。(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 積極派への変身 満洲事変当初は関東軍への協力に消極的だった満鉄首脳陣が180度方針転換するのは、10月に入ってからだった。 事変勃発にあたって内田(※内田康哉 満鉄総裁)と江口(※江口定條 副総裁、三菱合資会社総理事)は、政府に事態の説明をするために国内へ向かおうとしていた。そのまま二人を向かわせた場合、不拡大方針を採る政府に完全に丸め込まれると危惧した十河(※十河信二 理事)は、内田を奉天へ向かわせ、本庄繁関東軍司令官はじめ幕僚らと会談する場を作った。内田と本庄との会談は10月6日に行われた。 「将来時局を収拾する為には内田伯を利用するを得策とし充分軍の意図を徹底せしめんとする」ため、事前に石原(※石原莞爾)らによって内田に対する要望書がまとめられていた。 この時点で関東軍は、本来与えられていた任務を大きく逸脱し、満鉄沿線を越えて北満へも軍事行動を広げ、満洲に傀儡国家を樹立するという計画を立てていた。しかし、新国家を樹立するとはいえ実際には、国家を運営していくための優秀な人材をいかに確保するかが一番の問題となる。 満洲事変までは一個師団程度の規模しかなかった関東軍には、行政を担える人材もいなければ、経済がわかる人材もいなかった。新国家をとにかく軌道にのせるためには人材を急いで集めなければならず、そのためには巨大組織である満鉄がかかえる豊富な人材がどうしても必要であった。 そこで石原らは満鉄の全面協力を取り付けるために、満鉄が長年求めていた長大線・吉会線の全線完成と競争相手となっている東北政権が運営する鉄道路線の掌握を柱としたつぎの10項目を挙げて協力を求めた。 �東北政権と共同経営していた四洮(四平街─洮南)・洮繡(洮南─繡々渓)・吉長(吉林─長春)・吉敦(吉林─敦化)の四鉄道の管理 �東北政権が経営していた瀋海(瀋陽─海龍)・吉海(吉林─海龍)・呼海(三棵樹─海倫)・洮索(白城子─懐遠鎮)・斉克(斉々哈爾─克山)の五鉄道の日満合弁への改組と満鉄への経営委任 �長年懸案となっていた吉会(吉林─会寧)・長大(長春─大賚)の二路線の敷設 �中国側の条約違反によって敷設された鉄道の一部改築 �東北政権が設立した官銀号・辺業銀行を買収して幣制を統一 �中国側官商に取って代わる北満特産物買収機関の設置 �主要都市間に航空路の開設 �満鉄直営または助成による大規模水田開発・羊毛改良・棉花栽培等の実現 �吉林・鴨緑江・宣列克都・海林などでの邦人林業助成または傍系会社による経営 �大石橋付近の菱苦土・復州の粘土・青城子の鉛・本渓湖の煤鉄など諸鉱業の拡張または新興の助成 まさに関東軍の真意が単に満鉄沿線の防衛ではなく、張学良軍の駆逐と満洲占領にあることを明らかにし、計画実現のために満鉄の積極的な協力を求めたのだ。 満鉄と関東軍が一体化 これに対して内田は、これまでの態度を一変させ「大に満足の意を表し」、関東軍との会談に「大に感激し最後の御奉公をなすべく決心」するまでになっていた(「満洲事変機密政略日誌」『現代史資料(7) 満州事変』)。会談はわずか一時間。まさに時流を見るに敏感な内田の鮮やかすぎる変身ぶりだった。 強硬派に変身した内田は、9日に奉天を出発して日本へ向かい、驚き慌てる政府の優柔不断を見るやますます強硬に関東軍支持を鮮明にするに至った。内田がここまで強硬派になるとは誰も予想できなかったが、とにもかくにもこれで満鉄と関東軍とは完全に一体化したのだ。 一方、内田の豹変に驚いたのは政府ばかりでなく、身内の江口副総裁も同じだった。天候不良から内田よりも遅れて国内へ到着した江口は、内田が豹変したことを国内で知った。民政党と縁の深い江口は内田を相当詰問したといわれるが、総裁自らが事変拡大派に転向してしまったため、不拡大派の江口と木村は逆に肩身の狭い立場に追いやられてしまった。 こうして満鉄首脳陣は関東軍に同調していき、満鉄と関東軍の二人三脚による満洲事変が進められ、やがて満洲国建国にいたる。その渦中で十河は、いわば影の実力者ともいえるほどの存在感を十分に発揮していった。その同じ頃、十河を引き立てた仙石が病死した(10月30日)。民政党内閣崩壊の片棒を担ぎ、満鉄の運命を変えてしまった弟子の姿を仙石は、死の床に臥しながらどのような想いで見ていたのだろうか。 * さらに【つづき】〈満州事変の「きわめて重要な伏線」…当時、「満鉄内部」で起こっていたこと〉では、満州事変が起こった際の、満鉄内部の様子について詳しく見ていきます。 【つづきを読む】満州事変の「きわめて重要な伏線」…当時、「満鉄内部」で起こっていたこと