【秘話公開】「四六時中、長嶋茂雄でいるのは疲れるものです」ミスタープロ野球が「野球界に残した想い」と、それを継ぐ者たち

「ミスターが倒れたみたいだ」 「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さんが6月3日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなった。享年89歳。野球界はもちろん、日本を元気にしてくれた、その生き様、偉大なる功績、語録、野球人生を振り返る。 「ミスターが倒れたみたいだ」 東京ドームで試合の取材に当たっていた巨人担当記者らに緊張が走ったのは、2022年9月6日の横浜DeNAベイスターズ戦のことだった。 中には亡くなったとの先走った情報を耳にした者もおり、各社が一斉に裏取りに動く。警視庁方面から同様の情報を得た記者もいた。にわかに最悪の事態が現実味を帯びて感じられた。 「やがて自宅で脳出血を起こして救急搬送されたものの、命には別条がないという話が広がり、みな、胸をなでおろしました。ですが、長嶋さんであっても、いつかはそのときが来てしまう。改めて、そのことを意識させられる日でもありました」(当時の巨人担当記者) それから約2年9ヵ月後の悲報となった。 運命を変えたコンバート 長嶋さんはプロ野球が誕生した1936年2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現在の佐倉市)に生まれた。父の利さん、母のチヨさんと兄1人、姉2人の6人家族だった。 子供のころは身長が小さく、愛称は「ちび」だったが、運動神経は抜群。小学校4年生ごろから野球に親しみ、NHKラジオ放送の実況から流れる初代「ミスタータイガース」の藤村富美男や「青バット」こと東映フライヤーズの大下弘に憧れて、プロ野球選手を志す。 勝負強さは当時からで、千葉県内の野球強豪校からの誘いも受けたが、‘51年、地元の佐倉第一高校へ進学した長嶋さんは、翌年’52年から同校の4番を務めた。厳しい練習の日々にあっても、日課である家の庭での素振りを欠かすことはなく、みずから実況しながらプロになった自分を想像してバットを振り続けたという。 意外にも、当時は全くの無名選手で、甲子園への出場経験もない。公式戦で放った本塁打はわずかに1本。転機が3年生の6月と遅かったのだ。任されていたショートの守備に不安を抱えていたが、サードにコンバートされるとバッティングが飛躍した。 ‘53年8月1日、千葉県予選でベスト4に入り、県営大宮球場で行われた二次予選の南関東大会の熊谷高戦でのことだった。 6回表、のちに東映フライヤーズ入る福島郁夫が投じたストレートを、長嶋さんはフルスイングで完璧に捉え、バックスクリーンに放り込んだ。打球は外野の芝生席で試合を観戦していた巨人スカウトの若林俊治のもとへ転がった。 この本塁打で長嶋さんは野球関係者から大きな注目を集め、のちに所属することとなる読売ジャイアンツからもオファーがあったが、父の利さんが進学を理由に勝手に断ってしまった。結局、長嶋さんは大学進学を決断することとなる。 巨人入りは母のため ‘54年、立教大学に入学した。利さんは、その直後の同年6月に急逝。以降は母親のチヨさんがなんとか家計を支えた。 在学中は砂押邦信監督に素質を見込まれ、伝説となっている「月夜の1000本ノック」などの苛烈な練習で鍛えられた。同期の杉浦忠投手(のちに南海ホークス)と本屋敷錦吾内野手(のちに阪急ブレーブス・阪神タイガース)とともに「立教三羽烏」と呼ばれ、55年秋季から57年秋季まで、5シーズン連続で東京六大学リーグベストナインに選出。4年生最後の公式戦では当時の六大学野球記録を更新する8本目のアーチを架けた。 プロ入りに際しては、最も有力視されていた所属先は南海ホークスだった。監督だった鶴岡一人氏も後年、自著で一度は南海入りを約束したと記している。だが、苦労をかけたチヨさんの「せめて在京球団にしてくれ」という願いを受け入れて読売ジャイアンツへの入団を決めた。 ルーキーイヤーの58年の4月5日、国鉄スワローズとの開幕戦に3番サードで出場した長嶋さんは、当時国鉄のエースだった金田正一と対戦。金田の剛球に対してフルスイングで勝負を挑んだが、4打席連続三振に終わったのは有名な話だが、翌日もリリーフ登板した金田の前に三振を喫している。もっとも、その後は金田を打ち崩し、通算の対戦成績は3割を超えている。 シーズン序盤は打率1割台と低迷。プロのピッチャーに対応し始めたのは5月半ばになってから。グングンと成績を伸ばし、8月6日の広島戦からは、その年限りで引退する「打撃の神様」川上哲治から受け継ぐように4番打者となり、最終的には29本塁打、92打点を記録して本塁打王と打点王の二冠を獲得した。この他に単打数と2塁打数が1位、打率3割5厘・盗塁37個は2位という驚異的な成績だった。 その一方で、9月の試合では一塁ベースを踏み損ねてホームランをフイにする大チョンボをファンの記憶に残している。今でいう「トリプル・スリー」を逃したわけだが、これに関して長嶋さん本人は日本経済新聞の「私の履歴書」において〈新人で昭和三十三年に背番号3番の三塁手が……と、実に美しい三並びの記録が野球史に残ったはずだった〉と珍しく悔いている。 以降も長嶋さんは「ミスタープロ野球」の道を独り、走り続ける。 「快打洗心」 翌年の‘59年6月25日、後楽園球場で行われた天覧試合に出場した長嶋さんは、9回裏にサヨナラ本塁打を放った。このホームランが、それからのプロ野球人気を爆発的に高めたと語るファンも多い。なお、この試合では王にもアーチが飛び出している。通算106回記録されることになるONアベックホームランの第一回目となった。 類を見ない勝負強さに加え、悪球打ちもお手のもの。「僕には一般で言うストライクゾーンがありませんねえ。打った球がストライクゾーンなんです」とニンマリする。 集中力の高さも他を圧倒していた。スイッチが入ったらまわりが見えなくなる。スランプに陥り、試合前に一心不乱にボールを打つ中で、「これだ」という答えにたどり着く。すると長嶋さんは高揚感からなのか、解放感からなのか、シャワーを浴びると試合を忘れて服に着替えて帰宅しかけたこともある。 長男・一茂氏が幼稚園児のころ、後楽園球場に連れてきたものの、試合でミスをして腹の虫がおさまらずに、その存在を忘れて一人で帰ってしまったのはあまりにも知られたエピソードだ。 仲間のバットで勝手に打って折ってしまったり、ほかのナインの靴下で自分のスパイクを磨いてしまったりしても、それでも憎めない。「チョーさんだから」で許されてしまう。 ファンからも愛され、誰よりもファンを大切にした。空振りしたときのヘルメットの飛び方まで研究して、見るものを魅了した。積極的にファンサービスを行い、サインをする際には座右の銘の「快打洗心」と添えた。「ファンに感謝する真心があれば、体力の限界まで力を出すことができるはず」との名言を体現する現役生活だった。 男のケジメ 65年から73年にはチームを前人未到の日本シリーズ9連覇に導き、翌年74年に引退。後楽園球場で行われた引退セレモニーで長嶋さんが発した「我が巨人軍は永久に不滅です」という言葉は、伝説として語り継がれている。 なお、事前に用意していた原稿には「永遠に」だったが、本番で長嶋さんはそれを読み間違えたようだ。今となっては、「永遠に」のほうに違和感を覚えるファンが多いだろう。 引退翌年から監督に就任。だが、厳しい船出が待っていた。70敗を喫し、それまでのどの前任者よりも苦汁を飲まされ、球団史上初の最下位に甘んじた。76、77年にリーグ連覇とやり返したが、日本シリーズではともに阪急の前に日本一を阻まれる。 残ったV9選手の衰えは隠しきれず、78年は2位、79年は5位に転落。采配を「勘ピューター」と揶揄されることもあった。気持ちがはやり過ぎて、バントをさせるために代打を送る際、審判にバントのジェスチャーをして相手に作戦がバレてしまったこともある。だが、それすらもほほえましく映るのだ。 79年シーズン終了後、危機感を抱いた長嶋さんは前例のなかった秋季キャンプを敢行。「地獄の伊東キャンプ」である。次の巨人軍を作り上げるために鬼と化すと決め、江川卓、西本聖、山倉和博、中畑清、篠塚利夫、松本匡史らを早朝から深夜まで野球一色の1ヵ月で徹底的に鍛え上げた。その練習量は、練習後の温泉の洗い場で寝てしまう選手が出るほどだった。 そんな彼らが80年代の常勝軍団の主力を担うのだが、80年はまだそのときではなく3位に終わり、長嶋さんは事実上の解任となる。 「男のケジメをつける」 悔しさを嚙み殺して辞任した。 4番1000日計画 肩の荷が下りた長嶋さんは解説者、レポーターとして日本にとどまらず、オリンピックの現地取材など世界でも奔放に飛び回った。91年の世界陸上では100メートル決勝でトップで駆け抜けた、親交のあったカール・ルイスをスタンドから「ヘイ、カール、カール!」と呼び止め、視聴者を和ませた。 海外で思い出されるのは、まだ現役時代、初の海外キャンプでフロリダ州ベロビーチに行ったときの逸話。子供たちを見た長嶋さんは「こっちの子供は英語が上手だねえ」と感心しきりだったという。 ほかにもテレビやコマーシャルなど、いつでも、どこにいても長嶋さんは国民を笑顔にしてきた。 監督復帰は93年。5月に控えていたJリーグ開幕に対抗するには、長嶋さんの再登板しかないと渡辺恒雄社長(当時)が担ぎ上げた。80年にユニフォームを脱いだとき、長嶋さんはもう二度と現場に戻らないと決めていたという。しかし、球界への恩返しの想いが、それに勝った。 キャンプから精力的に話題を振りまいた。併殺崩しのスライディング練習では、みずから標的となって「オレを倒してみろ!ぶつかってこい!」と声を張り上げた。1年目は3位で終えたが、オフのドラフトでは4球団競合の松井秀喜の当たりくじを引き、コマーシャルばりの会心の微笑み。 松井とは「4番1000日計画」を掲げて、巨人の4番へと育て上げていく。自宅に呼んでバットを振らせて直接教えることはもちろん、離れていても電話越しでスイングの音を聞き分けて「ダメだ、そうじゃない」「よし、その音だ」と遠隔指導。愛弟子をその後、ニューヨーク・ヤンキースで4番を務めるまでに成長させた。 打席で失禁⁉ 94年は監督として1番印象に残っていると話す中日との「伝説の10・8決戦」を制してリーグ優勝。勝った方が優勝という、長嶋さんみずから「国民的行事」と称した試合の最高瞬間視聴率は67パーセントにも及んだ。その勢いで西武との日本シリーズもものにし、長嶋さんは監督して初の日本一に輝く。 還暦を迎えた96年。2月20日の誕生日では「今日、初めて還暦を迎えまして」とコメント。報道陣を爆笑させたが、監督時代は特に迷言・珍言もオンパレードだった。 あるシーズン前は開幕ダッシュを念頭に、「開幕10試合を7勝4敗でいきたい」と宣言。 一次政権のときから「失敗は成功のマザー」といった英語交じりや長嶋さん考案の英語が飛び交ったが、96年は「メイクドラマ」が生まれたシーズンだった。プロ野球史上最大となる11・5ゲーム差からの大逆転優勝。苦境に立たされても「勝つ」と選手たちを鼓舞し続けた長嶋さんだから完結できたドラマにファンは酔いしれた。 他球団の4番バッターの獲得を繰り返して避難されることもあったが、それもファンに夢を見てもらいたいとの思いがあった。 2000年には背番号3を復活させ、盟友・王貞治が率いるダイエーホークスとの日本一を懸けたミレニアム決戦が実現。日本シリーズの魅力についてこう放言した。 「日本シリーズという大舞台で打つホームランほど、気分がいいものはありません。おしっこが漏れちゃうんですから。本当なんですよ」 周囲が大笑いするのを見て慌てて「いえ、みんながそう言うんですよ。私はないですよ、打席で失禁したことなんかありません」と取り繕ったが、最高の戦いを前に心が躍っていたのだろう。 4勝2敗でON対決に勝利し、勇退の噂も流れたが、長嶋さんはもう1年の続投を志願。まだ投手陣を整備する必要性を感じていて、次の監督に苦労させまいとの考えからだった。 長嶋さんの意思を継ぐものたち 01年の退任後は、巨人軍終身名誉監督、アテネオリンピック日本代表監督に就任した。金メダル獲得を使命とし、全身全霊をかけてまっとうしていたが、本大会を5ヵ月後に控えた04年3月、長嶋さんを病魔が襲った。脳梗塞だった。指揮をとることはかなわなかったが、選手たちには「野球の伝道師になれ」と伝えた。 右半身に麻痺が残り、言語能力に影響が出たものの、一命を取り留め、以降は懸命なリハビリを続けながら巨人選手の指導を続けた。 13年には、松井さんと共に国民栄誉賞を受賞。同年5月5日の巨人対広島戦前に行われた授与式では、 「国民栄誉賞を頂きまして、本当にありがとうございます。松井くんもいっしょにこの賞をいただいたこと、厚く御礼申し上げます。ファンの皆様、本当にありがとうございました。よろしくお願いします」 と元気に挨拶した。8年ぶりの公でのスピーチだった。 21年に行われた東京オリンピックでは、開会式に王、松井と共に参加し、聖火をつないだ。 翌年、東京ドームでの開幕戦の前に行われた文化勲章受章祝賀セレモニーで多くのファンから喝さいを浴びた。 その後も東京ドームでの巨人戦を訪れてチームを激励するだけでなく、ジャイアンツ球場で選手を熱血指導するなど、野球、巨人への衰えぬ情熱、愛情を注ぎ続けた。 しかし、そのときは訪れてしまった。最後の公の場となったのは、今年3月15日のメジャーリーグ開幕シリーズに先立って行われた巨人とドジャースのプレーシーズンゲーム。大谷翔平がSNSに投稿した長嶋さんとの2ショット写真は、まさに「伝道」を思わせるものだった。 なぜこれほどに、長嶋茂雄は日本国民に愛され、全野球人から絶大な尊敬を集めたのだろうか。長嶋さんは「四六時中、長嶋茂雄でいるのは疲れるものです」と漏らしたこともあったというが、「ミスタープロ野球」の偉大さを全て語り尽くせる者は、誰一人として存在しない。 長嶋茂雄は誰からも最期まで愛された、いや、永久に愛され続けていく。 【こちらも読む】ミスターの老後は切ない…長嶋家でまた内紛、今度は次女が長女を追放

もっと
Recommendations

東日本大震災で1年9か月被災地に、犬猫5000匹の命守る…女性が設立した広島のNPO30年

犬や猫の保護活動に取り組むNPO法人「犬猫みなしご救援隊」(広…

地域の情報伝える新聞社が自己破産申請 購読者数の減少にともない売上減少か《新潟》

新潟県村上市で地域情報を伝える新聞社「村上新聞社」が6月3日付けで…

【殺人未遂】消防通報「親子げんかしている」45歳母親を刃物で刺すなど殺害しようとした疑い27歳娘逮捕(浜松市)

5日、浜松市浜名区で45歳の女性が刃物で刺されるなどして重傷を負い、…

「実質何も対策してない」「取り締まれよ」 「Switch2」高額転売続出...メルカリに批判相次ぐ

任天堂の新型ゲーム機「Nintendo Switch 2」が発売した2025年6月5日、…

【 浜崎あゆみ 】 「集合写真の全員で一致団結し、渾身の命懸けの、傷だらけだけど眩しいほどの【エンタメ】をお届けしに行きます」 スタッフとの集合写真をアップ

歌手の浜崎あゆみさんが、自身のインスタグラムを更新。スタッフとの…

車いすのまま遊べる砂場、大型遊具にはスロープ…山口に「インクルーシブ」遊具そろう広場オープン

障害の有無にかかわらず全ての子どもが安心して使えるインクルーシ…

「紛失防止タグ」悪用し居場所特定、ストーカー規制法の対象外…GPS含め相談急増883件

全国の警察が昨年1年間に相談を受けたストーカー事案のうち、GP…

橋下徹氏、「失恋事案」発言めぐり元フジアナに反論 「女性側から事実を聞いてもいい」

元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏が2025年6月5日にXを更新し、元タレン…

農村の娘、つかの間の輝きから破滅への転落描く「マライア・マーティンの物語」

5月の好舞台を担当記者が語り合った。山内則史5月は、英国女…

寝るときのエアコン『24〜25℃』が正解!タイマーは何時間がベスト?大事なのは「脳をクールダウンさせる」 目からウロコな"睡眠の正解"

脳が23°C前後であるのに対し、体は26°C前後で快適な室温だという

loading...