ゴリラ研究のプロが「幸せ」について語る 死から距離が保てている状態

ヒトにとって「幸せ」とは何だろうか——究極とも言えるこの問いに対して、生物学からアプローチしているのが、分子遺伝学が専門の小林武彦氏だ。新刊 『なぜヒトだけが幸せになれないのか』 の発売を機に、ゴリラ研究の世界的権威・山極壽一氏と「幸せ」について語り合った。 こばやし・たけひこ /1963年、神奈川県生まれ。東京大学定量生命科学研究所教授。日本遺伝学会元会長。専門は分子遺伝学。主な著作に『生物はなぜ死ぬのか』『なぜヒトだけが老いるのか』など やまぎわ・じゅいち /1952年、東京都生まれ。元京都大学総長・総合地球環境学研究所所長。ゴリラ研究の第一人者で、アフリカでの研究歴は40年を超える。主な著書に『争いばかりの人間たちへ』『老いの思考法』など 「幸せ」とは、死なないことと見つけたり 山極: 新刊 『なぜヒトだけが幸せになれないのか』 を読ませていただきました。ミクロな生命科学の立場から、「幸せ」という壮大なテーマに挑戦していて、マクロな霊長類学をやってきた私からすると目からウロコです。 小林: そう言っていただけて大変うれしいです。「幸せ」と聞くと、ほとんどの人は「生物学が扱うテーマではない」と思うでしょう。そこで今回の本では、「幸せ=死からの距離が保てている状態」と定義しました。たとえば健康で家族に囲まれて暮らしている人は、自分が死ぬことなんて微塵も考えていないはず。この状態こそが幸せなわけです。 山極: 時間的に遠い未来にある死を意識できるのは、ほかの動物にはない人間だけの特徴です。その点では人間固有の観点に立脚しつつ、すべての生物にも共通する定義を目指したわけですね。 小林: 顕微鏡でミクロな微生物たちの世界を覗いていると、まるで異次元に迷い込んだかのような感覚になります。そんな微生物も含めて、どの生き物にも共通した幸せを考えるならば、「生きている」ことがカギだと思ったんです。 山極先生はアフリカで長年にわたりゴリラを研究されてきましたが、彼らはどういったときに幸せを感じているのでしょう? 山極: 子ども同士で取っ組み合いや追いかけっこをして遊んでいるときなんかは、幸せそうに見えますね。でもそれ以上に特徴的なのは、彼らにとって不幸は一過性のものであること。過ぎたことをクヨクヨしたり、いつまでも根に持ったりしません。 アフリカのガボンで出会ったドドという3歳のゴリラは、出会った時点ですでに右ひじから先を失っていました。しかし全然くじけることなくほかの子どもと遊び、自分なりの方法で木にも登って、自力でフルーツを採って食べている。自らが不幸だとは考えず、あるがままの状態を受け止めているわけです。 もしこれが人間だったら、他者と比較して、現在とは異なる「あり得たかもしれない状況」を考えてしまう。進化の過程で想像力を身につけて、見えないものまで欲望できる能力が備わったからこそ、不幸だと感じる領域が広がったのでしょう。 格差と暴力はいつ生まれた? 小林: ヒトは本来的に、他人と自分を比べて、不公平があれば敏感に反応するよう遺伝的にプログラムされています。集団で生きてきたヒトにとって、ズルい抜け駆けはメンバー全員の命を危険にさらしかねないので、そういった感覚が備わったのでしょう。 ところが2万〜1万年くらい前に、農耕が始まり定住するようになると、社会は大きく変わってしまいました。牧歌的で誰もがその日暮らしだった狩猟採集の時代と異なり、農業は要領の良し悪しによって収穫量にも差が生じます。 こうして貧富の差が拡大し、不公平が当たり前の格差社会が誕生して、現在まで続くわけです。日本では弥生時代に定住と農耕が本格化したため、私はこの現象を「弥生格差革命(YKK)」と呼んでいます。 山極: おそらく暴力的な争いが生まれたのも、同じ時期だったのでしょう。農耕のために一ヵ所に定住すると、所有の概念が生まれ、土地は重要な財産になります。占有した土地に他者が侵入してきたら、激しい暴力で撃退するようになるわけです。 小林: 一方で農耕によって安定的に食糧を確保できるようになると、人間が暮らす集団にも変化が訪れます。おそらくそれ以前の狩猟採集の時代、人間の共同体のメンバーは100人前後だったのではないでしょうか。脳のキャパシティから考えて、人間が意味あるつながりを持てるのは、100〜150人が限界だと言われていますから。 山極: そもそも複数の家族が集まって共同体をつくるのも、サルや類人猿には見られないヒトだけの特徴です。ヒトは彼らより多産であるにもかかわらず、成長期が長いため子育てに手がかかる。そこで複数の家族が力を合わせて、共同体で子どもを育てるようになったわけです。 負けず嫌いの「ゴリラ」 小林: ヒトだけに長い老後があるのも、理由は同じですよね。生物学の知見から推測すると、ヒト本来の寿命はおよそ55歳ですが、現在の平均寿命は85歳前後。つまり約30年間が老後になります。 生殖期間が終わった(女性が閉経した)後も寿命が続くのは、老後に子育てをサポートするシニアが集団内にいたほうが、生存に有利だったからでしょう。生物学で「おばあちゃん仮説」と言われるものです。 これはなにも、年長の女性に限った話ではありません。人間の集団が巨大化するにつれて、知恵や技術が生存に役立つ場面が増えていき、経験豊富なシニアの役割は大きくなったと考えられます。 山極: 小林さんは著書の中で、リーダーの条件のひとつとして「シニアであること」を挙げていますよね? 実はゴリラの群れでも、成熟したオスがリーダー的な役割を務めることがあるんです。 ゴリラは負けず嫌いなので、群れの中でケンカが起こると、双方が負けを認められずにエスカレートしてしまう。そこで第三者が介入して、双方のメンツを立てながら調停し、被害を抑えるわけです。オスのボス猿を筆頭に、強さに応じて明確な序列が決まっているサルとは大きな違いです。 小林: かつてはヒトも知恵者のシニアを中心に、小規模な共同体をつくりながら暮らしてきました。それが死からの距離を遠ざけてくれる、幸せな生き方だったはずです。ところがYKKを経て集団が拡大し、規模の大きい社会が生まれたころから、遺伝的にプログラムされたヒトの性格と、周囲の環境に齟齬が生じ始めたように思います。 最近のテクノロジーを見ても、発達スピードが速すぎてヒトの持っている遺伝子ではついていけていない。振り回されるばかりで、人間らしい暮らしが失われていって、実は幸せではなくなっているのではないでしょうか。 ヒトが幸せになれない原因の一つは、日進月歩で発展するテクノロジーではないだろうか。後編記事『「スマホを捨てて、森へ帰れ」動物園のゴリラにスマホを見せてみたら…「予想外の事態」が待ち受けていた!』では引き続き、2人の対談をお届けする。 「週刊現代」2025年6月9日号より 「スマホを捨てて、森へ帰れ」動物園のゴリラにスマホを見せてみたら…「予想外の事態」が待ち受けていた!

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