プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として偉大な足跡を残して「ミスタープロ野球」と呼ばれ、3日に89歳で死去した長嶋茂雄終身名誉監督の告別式が8日、東京都品川区の桐ヶ谷斎場で執り行われた。 読売巨人軍や読売新聞の関係者ら96人が参列し、冥福(めいふく)を祈った。 告別式には親族のほか、福岡ソフトバンクホークス会長の王貞治さんや巨人軍元監督の堀内恒夫さんら日本シリーズを9年連続で制したV9メンバー、前監督の原辰徳さん、現OB会長の中畑清さん、松井秀喜さん、元監督の高橋由伸さん、巨人軍応援組織「燦燦(さんさん)会」会長の御手洗冨士夫さん(キヤノン会長兼社長CEO=最高経営責任者)らが参列した。 会場の祭壇は長嶋さんが大好きだったジャイアンツカラーのオレンジ色の花で彩られ、背番号3のユニホームや天覧試合で本塁打を打ったバット、松井さんと一緒に受賞した国民栄誉賞記念品の金のバットなどが飾られた。 ◇ 告別式では、長嶋さんとの「ON砲」で黄金時代を築いた王さんや、マンツーマンの素振り指導を受けて強打者に成長した松井さんらが在りし日の思い出を語った。 王さんは「あなたは日本の健康優良児でした。存在そのものが、日本人の誇りでした」と語りかけた。長嶋さんの1年後、1959年に巨人に入団してからの交流を振り返り、「あなたとの六十有余年、私にとっては忘れることのできない貴重な年月でした。感謝するしかありません。89年間、よくぞ頑張ってくれました。『長島茂雄』に戻ってゆっくりとお眠りください」と話した。 松井さんは弔辞の冒頭で、「監督、きょうは素振りないですよね? その目を見ていると、『バット持ってこい。今からやるぞ』と言われそうでドキッとします。でも、今はその声を聞きたいです」と切り出した。米大リーグ・ヤンキースに移籍した後も続いた深い絆に触れながら、「これからも、なぜ私にたくさんのことを授けてくださったのか、その意味を、その答えを、自分自身が心の中で、監督に問い続けます。その強烈な光で、ジャイアンツの未来を、日本の野球の未来を照らし続けてください」と悼んだ。 2004年に脳梗塞(こうそく)で倒れた長嶋さんの後を受けてアテネ五輪でヘッドコーチとして指揮を執った中畑清さんは、「ミスターは万人に対し、誰にでも、心優しい笑顔を見せながら対応する、言葉をかける。私は『ビッグになればなるほど謙虚に生きろよ』ということを教わったような気がします。それを手本に、これからも頑張っていこうと思います」と語った。 喪主を務めた次女の三奈さんは長嶋さんの闘病生活を振り返り、「私が見ていても胸が締め付けられるぐらい苦しい治療をたくさんしてきました。でも、野球を全うしたそのままの力で病と真っ正面から向き合って、決して諦めることはしませんでした。最後まで長嶋茂雄を貫いた人生を送った」と語った。 ◇ 長嶋さんのひつぎを乗せた霊きゅう車は7日午後、都内の自宅を出発し、東京ドーム周辺を通って斎場に入った。同日の通夜には、現監督の阿部慎之助さんや選手の岡本和真さんらも参列し、堀内さんと原さんが弔辞を読んだ。結婚式の仲人を長嶋さんに務めてもらったという堀内さんは「今でも起き上がって声がするんじゃないかなという錯覚にとらわれます。私の心はまだ整理がつきません」と胸の内を打ち明け、原さんは「常に勝負に厳しく、ファンのことを第一に考えられていた。私をはじめ、今の巨人軍選手にも確実に長嶋さんの志は受け継がれています。長嶋茂雄は永久に不滅です」としのんだ。 葬儀委員長の山口寿一・巨人軍オーナーは、長嶋さんが集中治療室でも決してくじけない姿勢を見せ続け、周囲の看護師たちを「長嶋ファン」にしてしまったというエピソードを明かし、「最期まで、周りの人々に感動を与えてドラマを残しました。私たち巨人軍は、長嶋監督の不屈の闘志を受け継いで、強いジャイアンツになるよう、全力を尽くします」とあいさつした。 ◇ 長嶋さんのお別れの会は後日、開かれる予定。8月16日に東京ドームで行われる阪神タイガース戦は「長嶋茂雄終身名誉監督追悼試合」として開催され、監督、コーチ、選手全員が巨人で永久欠番となっている長嶋さんの背番号「3」のユニホームを着用することが決まっている。 長嶋さんを追悼する記帳所が、交流戦期間中の巨人戦開催日に東京ドーム(東京都文京区)の22ゲート前広場に開設される。17〜20日は正午から、21、22日は午前10時から、いずれも試合の七回終了時まで。