フリーアナウンサー、VERYモデルとして活躍する青木裕子さん(Instagram: yukoaoki_official)は、10歳と9歳の2人の男の子の母。2024年4月には、青木さんがお子さんたちと一緒に実践してきた「体験学習」の具体例や、小学校受験の大原先生による月々のアドバイスなどを掲載した、書籍『「学びが好きな子に育つ!」 青木裕子の3歳からの子育て歳時記』が発売されました。 子育ての正解ってある? 教育ママじゃダメ? 子どもにとって“本当にいいこと”って? などなど、この連載では、青木さんが子育てをする上で日々感じているアレコレを、「子どもの教育」をテーマにしつつ徒然なるままに語っていただいています。今回は、調子が上がらないときについつい考えてしまう子育てのモヤモヤについて。子どもとどこまで関わればいいのか。見守るって、どうすればいいのか。迷いながらも日々子育てに向き合う青木さんが、自身の体験をもとにその答えを探ります。 気持ちに靄がかかる日々… 急に汗ばむ日が増えて、「もうそんな季節か」と驚く。毎年のことだけど、時間の流れに気持ちがついていかない。更に、今年は特に調子が上がらない。この原稿も何度も何度も書こうとして進まなくて、書いては消し状態だ。気持ちに靄がかかっている。季節柄? ホルモンバランス? 何にせよ、「今はそういう時期だ」と割り切って靄が晴れるのを待つしかないと思っている。 以前書いたことがあるけれど、この連載では、「子育てって大変」というあるあるを共有したいとは思っていない。もちろん子育てって孤独な側面があるので、共感が支えになることは多いのはわかっている。ママ友にちょっと愚痴を聞いてもらったり、ネットで子育てあるあるエピソードを検索してみたり。「あーこんな気持ちになっているのは私だけじゃないんだ」と感じて心が軽くなる。それでも、この連載では、共感を呼ぶ苦労話じゃなくて、子育てという仕事のやりがいや、教育の難しさについての考察に焦点を当てていきたいと思っている。 だから、靄の中にいるとうまく言葉が紡げなくなってしまうのだ。(いつもはうまく紡げていると言いたいわけではないです)モヤモヤクサクサした気持ちで原稿を書き始めるとどうしても愚痴っぽい文面になってしまう。 親だって調子が上がらないときもある 例えば〈長男なんてすっかり一人で育ってきたような顔をしてさ、きっと顔だけじゃなくて心の底からこれまでもこれからも一人で生きていけると感じているんだろうけど、私からしたらまだ何にもできないくせに、そんなに気に入らないなら私が作った夕食なんて食べないでもらっても構いませんけどって心の底から思ってしまう〉とか〈お調子者の次男は、いつも言い訳ばかりで、二言目には“でも” “だって”が始まる。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、彼の場合は、その兆候は1歳過ぎたあたりから。当時は、随分弁がたつのねって感心していたけど、さすがにこのままじゃいつか苦労しそうな気がして心配になる〉なんて。 これじゃだめだ! こんなことが書きたいんじゃないんだ! もっと前向きに子育てを考えていきたい。だって、「ママの笑顔は家族の太陽」って言うじゃないか。そう、どんな時でも、私は笑顔を忘れないように……って、それも酷だなあと思ってしまう。やることやるだけでも、考えること考えるだけでも大変なのに、その上笑顔まで求められるなんて労働環境ブラックにもほどがある。私は親である前に一人の人間、というか、一人の人間である私が親になったにすぎないので、調子が上がらないときは調子が上がらないのだ! 悩むときは悩むし、機嫌が悪い時は機嫌が悪い。 ……結局また愚痴になってしまった。「自分の機嫌は自分でとる」とは言うけど、日常は私の気分に関係なく進行していくし、親になったことで、私が関わらなければいけない人生は私の人生だけではなくなったからとても難しい。仕事でどんなにいいことがあっても子どものことで学校から電話がかかってきたら気持ちがしぼんでしまうんだもの。 手を離すってどうやるの? もちろん、親になる前だって、いろんな事柄が複雑に絡み合って私の人生は形成されていて自分でコントロールできることばかりじゃなかったのだけど、最近難しいと感じているのは、自分でコントロールできることじゃないのに自分でコントロールしなきゃいけないっぽいことに関してだ。つまり、例えば息子が勉強するかしないかなんて、私がどうにかできることじゃないと思うんだけど、親だから「私がやらせなければいけない」側面があるというようなことだ。勉強だけじゃなくて、習い事とか友達関係とか、何から何まで、私は一体どこまで関わればいいんだろう。子育てでは、「自分がこうだったから」は禁句だと思っているのだけど、どうしても思ってしまう。「私はこんなに親にいろいろやってもらわなかったなあ」って。 時代が違うから、と言ってしまえばそれまでなんだけど、例えば、連絡ツールの変化によって、学校や習い事の連絡が親に直接届くようになったことや、親同士ですぐにコンタクトが取れてしまうことで、〈やれること〉が増えた結果〈やること〉が増えているんだと思う。(私は一体いくつのライングループに入っているのだろうと思う。習い事など子どもが何かに属するたびに連絡先が増えていくのだ) 息子たちが頑張るための応援はしたい。能力を最大限に生かせる環境づくりはしたい。でも、サポートとコントロールのバランスがとても危うい。「小学生になったらだんだんと目は離さずに手は離して」と言われるけど、だんだんというあいまいな表現について具体的なスピード感を知りたいし、私の目も手も取り外し可能ではないからそんなに都合よくはいかないのだ。 靄の中でも前だけは向きたい まあ、悩んだところで、そもそもコントロールなんてできないんだ、とも思う。だって、当たり前だけど、彼らは私とは別の人間なんだから。それに、私がモヤモヤクサクサするように、彼らも自分ではコントロールできない気持ちの変動を感じているんだろうなあとも思う。 不機嫌な様子で帰宅されると「何かあった?」と聞きたくなってしまうけど、何かはうまく言えないけど、何となく気分が上がらない時って子どもにもあるんだろうなあ。季節柄か、ホルモンバランスか。彼らは彼らで、(まだ)私よりも小さい体でいろんな思いを抱えているに違いないのだ。 だから、息子たちよ、母は「クソババァ」と言われようとも「うるせー」と罵られようとも、寛大な心で受け止めて、いつか来るはずの「お母さんあの時はありがとう」を夢見て毎日を過ごそうと思うよ。そして、明日は今日より、来月は今月より、来年は今年よりパワーアップしていくから一緒に頑張ろうね。 だいぶ無理やりな前向きだけど、今はそれでいいかな。前を歩く息子たちの背中を見つめながら、「ついこの間まで寝顔を見て思いを巡らせていたのになあ」と、時間の流れを感じる。やっぱり気持ちは追い付かない。でも、まあそれでもなんとかここまで頑張ってきたじゃないか。靄の中でも彼らの背中だけは見失わないように、しっかり目を開いて歩んでいこうと思います。 2児の母・青木裕子が、息子も経験した“小学校受験”の最近の「傾向」に思うこと