政治がらみの陰謀に積極的に加担する花魁 NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』で、福原遥が演じる誰袖の存在感が急速に高まっている。なにしろ、吉原の花魁でありながら、蝦夷地(北海道)の松前藩がロシアと抜荷(密貿易)をしている証拠をつかもう、という政治的画策に加わっているのである。 【画像】“大河”の妖艶なイメージとは裏腹? 「誰袖」を演じた福原遥 事の発端は、第21回「蝦夷桜上野屁音(えぞのさくらうえののへおと)」(6月1日放送)で取り上げられた。老中の田沼意次(渡辺謙)が側近の提案を受け、蝦夷地を幕府の直轄領にし、産出する金銀銅などをもとにロシアと交易して、幕府財政を立て直そうと考えたことだった。だが、蝦夷地を統括している松前藩の領地を召し上げないかぎり、その企てを実現するのは難しい。そこで、意次の跡取り息子である意知(宮沢氷魚)が、領地を召し上げるに足る松前藩の「不正」を探すことになった。 誰袖を演じる福原遥 意知は忍びの恰好で吉原に繰り出し、幕府の勘定組頭で蝦夷地に詳しい土山宗次郎(柳俊太郎)を紹介され、また、松前藩の元勘定奉行、湊源左衛門(信太昌之)から情報を仕入れた。このとき呼ばれたのが大文字屋の誰袖だった。 この誰袖、実にしたたかなのである。彼女は土山の敵娼(お気に入りの女郎)なのに、意知と湊の話を大文字屋の者に盗み聞きさせ、意知が松前藩の抜荷情報を得たがっていると知ると、情報を提供したいと意知に持ちかけた。そして、意知から「金が欲しいということか?」と尋ねられると、したたかな花魁のねらいを明かした。「わっちを身請けしておくんなし」と求めたのである。 誰袖のこの要求は、第22回「小生、酒上不埒(さけのうえのふらち)にて」(6月8日放送)で、いったんは意知に断られたが、誰袖はあきらめなかった。 だまし合いの修羅場がよく描写され 松前藩主、松前道廣(えなりかずき)の弟で江戸家老の松前廣年(ひょうろく)が大文字屋に来ると、誰袖は自分から近づいて、廣年が着けていたロシア産と思われる琥珀の腕飾りを入手。それを「抜荷の証し」として意知に届けた。だが、それを受けて大文字屋を訪ねた意知は、ロシア産の品を所有していただけでは抜荷の証拠にはならず、ロシアと直接交易した証拠が必要なのだ、と説く。 すると、誰袖は「では、この際、弟君(廣年)にその蝦夷を通さぬ抜荷とやらをやらせては?」と提案する。もっと吉原で遊びたがっている廣年に誰袖がねだれば、乗ってくるのではないか、という見立てである。ここまでいわれて意知も覚悟を決めた。自分が田沼意次の嫡男の意知だと名乗った上で、「見事抜荷の証しを立てられた暁には、そなたを落籍しよう」と、誰袖に告げた。 さて、ここまで描かれた誰袖のエピソードは、史実かと問われれば、そうではなく脚本家の創作だ、というしかない。しかし、よくできたフィクションだと思う。 理由の一つは、吉原という世界が誰袖を通してよく描かれているからだ。第22回で意知から、土山宗次郎の敵娼なのに、自分が身請けするのでいいのか、松前藩の家老をだますような危ない橋を渡ってもいいのか、という趣旨のことを問われた誰袖は、こういった。「吉原は日々が戦にござりんすよ。だまし合い、駆け引き、修羅場、わっちの日々はきな臭いことだらけにござりんす」 事実、女郎と客がだまし合うのが吉原という場だった。また、女郎のなかでも上位の花魁、それも看板になるような花魁の客は、上級武士や豪商が多く、彼らが満足する会話をするためには花魁にも教養が必要だった。花魁はいわば、教養を身に着けて客の男をだましたのである。そういうしたたかさが、誰袖によく描かれている。 蝦夷地の話を聞かされていた可能性 続いて、誰袖が蝦夷地に関する情報を知っていても不思議ではなかったからだ。吉原を舞台に誰袖も加わって、松前藩の抜荷の証拠をつかもうという画策が行われた、というのはフィクションだが、誰袖が『べらぼう』で描かれたように、幕府の勘定組頭であった土山宗次郎の敵娼であったことはまちがいない。史実でも誰袖は身請けされ、身請け先が土山だったからだ。 史実において土山は、田沼意次の意を受けて蝦夷地の実地調査を行い、天明4年(1784)と同5年(1785)、何人もの探検家を蝦夷地に調査に向かわせている。そんな土山が誰袖を身請けしたのは、少し前の天明3年(1783)だったと思われる。天明3年正月に刊行された吉原のガイドブック『吉原細見』には、大文字屋の最上位の花魁である「呼出」として「たがそで」という名が見られるのに、同4年正月の『吉原細見』では、その名が消えているからだ。 そして土山は、蝦夷地のプロジェクトに関わりながら吉原に通い詰めたので、誰袖に蝦夷地に関する話をしていないほうが不自然だろう。そうした話をするかどうかは、女郎の教養の度合いにもよるだろうが、少なくとも誰袖には教養があった。彼女が詠んだ狂歌が、『べらぼう』で桐谷健太が演じている大田南畝(狂歌を詠む際の狂名は四方赤良)が編纂した『万歳狂歌集』にも載っているほどなのだ。 大文字屋の楼主で、死んだ市兵衛と同姓同名の2代目は(『べらぼう』では初代も2代目も伊藤淳史が演じている)、江戸を代表する狂歌師の一人としても知られ、「加保茶元成」という狂名で吉原連(「連」とは狂歌を詠む人たちのグループ)を結成し、主宰したほどの人物だった。誰袖も恐らく、その手ほどきを受けたのだろう。 かなりしたたかな女性だったのでは いずれにせよ、土山宗次郎に1,200両(1億2,000万円程度)もの金をかけさせ、身請けを実現した誰袖は、かなりしたたかな女性だったのではないだろうか。 小芝風花が演じた五代目瀬川を身請けした鳥山検校は、その金を法外な高利貸しによって得ており、のちに検挙された。このとき『べらぼう』でも、生活に窮した旗本が検校に借金をし、取り立てられ、追い詰められるところが描かれた。実際、江戸時代も後半のこの時期、旗本の窮乏が問題になっていたが、土山は吉原でさんざん豪遊した挙句、高額を投じて花魁を身請けした。 身請けは、身に着けた教養も駆使しながらの「だまし合い」と「駆け引き」の結果、誰袖が勝ちとったものだったとしても不思議ではない。また、吉原は江戸のなかでもさまざまな情報が集まる場所だったから、土山の吉原通いには、蝦夷地がらみの情報収集という目的があったとしても不思議ではない。 このように歴史的な合理性にもとづいたフィクションなので、『べらぼう』で描かれた誰袖には説得力があるのである。 しかし、誰袖が幸福をつかんだかどうかは別の問題だ。天明6年(1786)に田沼意次が失脚して蝦夷地を開発する計画も頓挫すると、土山には500両の公金横領容疑がかけられた。吉原通いも横領した金や、勘定組頭という役職を利用して受け取った賄賂だった可能性が疑われたのだ。 蝦夷地の実地調査も行った戯作者の平秩東作に匿われ、現在の埼玉県所沢市に誰袖と一緒に潜んだ土山だったが、結局、見つかって斬首されてしまった。その後の誰袖の行方は、まったくわからない。 香原斗志(かはら・とし) 音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。 デイリー新潮編集部