サリンと原発の放射線…見えない敵と戦った元自衛官 「あの日、私も怖かった」 退官後に語る現場のリアル

7年前に退官した元自衛官・宮澤重夫さんには、1年に1度、特別な日がある。「あの日、私も怖かった」という、3月20日だ。サリンがまかれた地下鉄のホームに突入した日。そして、その16年後は、爆発した福島第一原発の建屋への放水を命じられた日だった。命をかけて緊急事態と向き合った自衛官は、何を支えに任務と向き合ったのか。 ■地下鉄サリン事件の数日前「実は極秘で」 陸上自衛隊・大宮駐屯地には、化学兵器などに対処する「中央特殊武器防護隊」が配置されている。宮澤重夫さん(60)は、その前身である第101化学防護隊に所属。1995年3月20日、30歳のときに出動したのが、地下鉄サリン事件だ。 事件を主導したのはオウム真理教の教祖、麻原彰晃こと松本智津夫・元死刑囚だった。教団幹部らに指示して猛毒サリンを車内にまき14人が死亡、6000人以上が負傷した。 宮澤さんは「実はその数日前、極秘で動いていた」と明かす。教団がサリンを製造しているとみた警視庁が強制捜査の準備を進め、化学防護隊に協力を求めたのだ。事件前日、宮澤さんたちは、警視庁の機動隊員たちに防護マスクの使い方などを教えていた。 そして翌日、実際に起きた事件—。陸上自衛隊に災害派遣命令が下され、化学科部隊や都内に配置されている部隊が集められた。宮澤さんが派遣されたのは日比谷線・築地駅。課せられた任務は、車両や駅構内を除染し、安全な状況に戻すことだった。実際に化学兵器に対処するのは、陸上自衛隊にとって初めてのことだった。 ■隊員が「すみません、怖くて入りたくありません」 「緊張と不安。どうなるんだろう、本当にできるんだろうか」「これはもう実戦だと。本番がきてしまったという気持ちでしたね」。 現場で、ほかの隊員2名と地下鉄構内の除染をするよう指示された宮澤さん。専門の教育を受けているからこそ、どれだけ危険な任務なのかはわかっていた。 いざ構内に入ろうとした時、隊員の1人の様子がおかしいことに気づいた。防護マスクをかぶる瞬間、その隊員は「すみません、怖くて入りたくありません」と訴えたのだ。宮澤さんは困惑した。ただ、実際に“怖くて入りたくない”という気持ちは、自身も一緒だった。 怖い。その思いは同じ。どうすべきなのか。自分自身に問いかけると、浮かんだのは「迷ったときには任務に立ち返れ」という言葉だった。 宮澤さんは隊員に、「おまえの任務はなんだ?」と強く問いかけた。ただの除染ではない。有毒化学剤のサリンの除染。一歩間違えれば死ぬかもしれない。「警察がやるのか?消防がやるのか?俺たち自衛隊しかやる人はいないだろう」 ■訓練でやっている動作 「体が覚えていた」 宮澤さん自身も、このやりとりで覚悟が決まった。先頭になり、地下鉄構内へと入る。がらんとしたホーム。とまったままの無人の車両。車内を確認すると、床の上に広がった液体が目に入った。 戦場で使われる濃度のサリンであれば無色無臭で、水と同じような感じのはずだが、電車の床の色のせいか、薄黄緑色に見えた。目の前に現れたサリン。宮澤さんたちは、ゆっくり除染剤をふきつけていった。 宮澤重夫さん 「除染作業を始めたら、意外と気持ちが落ち着いてきた。普段訓練でやっている動作を、体が覚えているんですけど、やっているとまわりが良くみえてきた」 深夜にまで及んだ自衛隊の作業。翌朝、都内の地下鉄は平常運転に戻った。 ■「生きた心地がしなかった」福島第一原発 “見えない敵”サリンと戦った宮澤さん。その16年後の2011年、同じ3月20日に、新たな敵と対峙(たいじ)する。巨大津波によって制御不能になった原発の放射線だ。 東日本大震災の発生時、中央特殊武器防護隊に所属していた宮澤さん。揺れがおさまるとすぐ、災害派遣の準備を始めた。行き先は、福島第一原発。発災から3日後の3月14日、政府の現地対策本部に到着すると、除染所の開設と、冷却機能を失った原発への注水作業という、2つの作業が始まった。 宮澤さんたちが担ったのは除染所の開設。3号機の注水作業へは、隊長以下、6人の隊員が向かった。 ところがその直後、3号機で水素爆発が起きた。作業に向かった6人はなんとか戻ってきたが、みな高い放射線を浴び4人は重軽傷。ドライバーは血まみれだった。それを見た若い隊員のなかには半分パニック状態になっている人もいた。この時の光景は「まるで戦場のような状態だった」と宮澤さんは振り返る。 宮澤さんたちは発災してから3日間、ほとんど寝ていなかった。この夜、宿泊する予定だった近くの公民館で「ようやく休める」と思ったとき、「2号機が今にも爆発する」と緊急の連絡が入った。 「ここにいたら、みんな被ばくしてしまう」 連絡に来た上官からは「荷物も持つな、そのまま逃げろ」と命じられた。悪化の一途をたどる状況。「生きた心地がしないというか…。本当、生きるか死ぬか、どうなっちゃうんだという気持ちでした」 ■時計の針がまわり3月20日 「ああ、またか」 3月19日、宮澤さんは原発建屋の最上階にある燃料プールへの放水部隊の隊長を命じられる。「地上放水冷却活動をする、と。“お前が隊長だ!”といきなり言われました」 特殊消防車を指揮し、建屋に空いた穴から燃料プールに放水せよとの命令。自衛隊が4号機に地上から放水を試みるのは初めてのことだった。翌日の作業に備え準備を行うと、時計の針は24時をすぎ、3月20日になっていた。 宮澤重夫さん 「そういえば地下鉄サリン事件の時も3月20日だったな、あぁ、またかという心境でした。なぜか分かりません。運命的なものがあるのかもしれないですけど」 宮澤さんが原発に向かう際に乗っていたのは放射線防護能力を持つ化学防護車だったが、建屋に近づくにつれて、線量計の数値が上がり、警報音が高くなる。胸に募る不安と、そして、任務に対する使命感。葛藤のなかで放水を始めると、一気に水蒸気があがった。 宮澤重夫さん 「私がいたところからも、水蒸気があがるのが見えた。それを見て、自分の持っている線量計が一気にあがる。水蒸気と一緒に放射線が出ているのがわかりました」 放水活動を無事終えた宮澤さん。その後も放水活動は続けられ、4号機は危機的状況を脱した。だが、宮澤さんが2日間にわたる任務で浴びた放射線量は20ミリシーベルト。一般の人の被ばく限度の約20年分にあたる量だった。その後も災害派遣任務は続き、宮澤さんが家族のもとに帰ったのは、発災から4ヶ月後のことだった。 ■体験した以上、伝えなければいけないことがある サリンと放射線という2つの見えない敵と戦ったストレスは、陸上自衛官を退官して7年経った今も、宮澤さんの体調に影響を及ぼしているという。 宮澤重夫さん 「地下鉄サリン事件の2年後くらいに、急に夜中に目が覚めて、息苦しくてベランダで深呼吸する、そんな症状が出て」 原因不明の下痢にも悩まされ、現在も自衛隊中央病院に通院している。 退官後、家族と過ごす時間が増えたという宮澤さん。そして、お気に入りの川辺のほとりでこれまでの経験を振り返るようにもなった。「ここで鳥を見ながらふと、これまで経験してきたことが何かの役に立てばいいなと思って」。そんな思いが芽生え、3年前から、これまでの体験をブログで発信している。 「命に係わることもある」「自衛官である以上逃げるわけにはいかない」「内心、私も恐怖」。そこには現場で感じた生々しい心情をつづっている。 宮澤さんの娘 「最近、インスタグラムとかXとか言っているなと思って」 宮澤さんが伝えたいこと。それは家族を思いながらも、任務を第一に考え恐怖に震えても一歩を踏み出す。そんな自衛官のリアルな姿だ。

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