文豪・太宰治を破滅へと導いたのは「税務署の職員」だった?…不倫の末に愛人と心中した「意外すぎる理由」

私たちが学校で学んだ歴史には、「偉人」たちの人生が輝かしいばかりに描かれている。しかし、彼らの中には、当時でさえも許されないタブーを破り、その「不適切すぎる」行動の結果、カリスマや女傑と呼ばれる存在になった者もいた。 堀江宏樹氏による 『日本史 不適切にもほどがある話 あまりに露骨すぎて「なかったこと」にされた史実』(三笠書房) では、そんな日本史上に残る人物たちの「知られたくない事実」を明らかにしていく。 今回は、いまから77年前の1948年6月19日、遺体が発見された太宰治の実像に迫る。 太宰治が心中した真相 昭和23(1948)年6月13日、人気小説家・太宰治が、愛人の山崎富栄(やまざきとみえ)と玉川上水に入水自殺したと告げるニュースが梅雨時の世間を駆けめぐった。 太宰治の人気は戦後になって急上昇し、大作家の一人に数えられるようになっていた。そんな時期の心中は理屈に合わず、富栄から「一緒に死んで」と強く望まれたのを優柔不断な太宰が断りきれなかった。いわば彼女に太宰は殺されたようなものだ……という説が、太宰研究家の相馬正一などによって唱えられ、文学史的にも定着している。 しかし、実際はそんなセンチメンタルな話だったとは思えない。戦前には知る人ぞ知るという程度の作家だった太宰だが、戦後すぐに没落貴族を描いた『斜陽』の成功で一躍人気作家に仲間入りできたものの、仕事量の激増に耐えられず、酒やタバコ、時にはクスリまで濫用した。そのため、持病の肺結核が急速に進み、喀血を繰り返すようになっていたのである。 太宰の心身の消耗はあまりに激しく、とても生きつづけられないと感じた太宰が純情な富栄を丸め込み、心中に持ち込んだのが真実に近いのではないか……と思われる。 愛人・山崎富栄に「死ぬ気で恋愛してみないか」 太宰の自殺の前年、つまり昭和22(1947)年3月、彼は屋台のうどん屋で飲んでいた時に美容師の山崎富栄と偶然出会い、惹かれ合うようになった。そしてその2カ月後、太宰は富栄に「死ぬ気で恋愛してみないか」というあまりに気障なセリフで愛を告白し、愛人関係となったのである。 しかし、すでに太宰は既婚者だった。彼の正妻は津島美知子で、太田静子という愛人もいた。まぁ、太宰の態度を見ていると、静子との関係は本当の愛人というより、創作のための打算が絡んだものだったようにも思われる。 戦前は名医の令嬢だったが父に早死にされ、没落してしまった太田静子の半生と、彼女の日記を素材にして新作『斜陽』を仕上げようと思いついた太宰が、計算ずくで静子に接近したというのが、男女の愛情という部分よりも大きいようだ。 昭和22(1947)年2月後半、太宰は静子から求められるまま、彼女が所有する小田原・下曽我にあった大雄山荘を訪ね、「あなたの赤ちゃんがほしい」という願いを叶える代わり、日記を借りることに成功した。そしてその直後の3月、太宰と山崎富栄は屋台のうどん屋で出会ってしまったのである。 愛人との不穏なやりとり 富栄は静子の妊娠を知ると、ライバル心を掻き立てられ、自分も太宰の子を産みたいと迫るようになった。しかし、この年の6月24日の富栄の日記には、太宰との不穏なやりとりが記されている。 「(僕の命は)あと二、三年、一緒に死のうね」という太宰に、「御願い。もう少し頑張って」と返す富栄だったが、混乱の中で、彼の子どもを授かるか、それが無理なら太宰と死ぬことこそが自分の使命だと思い込んでしまったらしい。 また、同年11月12日、太田静子が太宰の子を出産した。15日、静子の弟・通(とおる)が太宰を訪ね、子どもの認知と命名を頼んだところ、太宰は自分のペンネームの「治」の文字を与え、その女児は「治子(はるこ)」と名付けられることになった。のちの作家・太田治子氏である。 その場にはなぜか富栄も同席していたが、太宰と二人っきりになると、あなたの大事な名前の一文字をあの女の子どもに与えるなんて……と、朝まで泣きながらの抗議を続けた。当時の太宰の担当編集者だった野原一夫によると、困った太宰は富栄に向かって「お前にはまだ修の字が残ってるじゃないか」(太宰治の本名は津島修治)と慰めたらしい。 しかし、本音では正妻・美知子との間以外に子どもの誕生などまったく望んでおらず、「このうえ、(他に子どもが)できたら、首括りだ」と本音をぶちまけていた。 哀れな富栄は太宰との子どもを欲しつづけ、翌年、つまり昭和23(1948)年になっても(それも太宰との心中の1カ月前まで)、こんな決意を日記に書いていた。 「どうしても子供を産みたい。欲しい。きっと産んでみせる。貴方と私の子供を」 富栄まで太宰治の小説のような文体で書くようになった事実には驚かされるが、そんな彼女が太宰に心中を持ちかける女にはとても見えない。 そして「自分も母になりたい」という悲しい願いを日記に記した翌月、富栄と太宰はお互いの身体を赤い紐でしっかりと結び合い、玉川上水に身を投げてしまったのである。 太宰の元にやってきた「死の番人」 心中は太宰に強く望まれた結果だとして、なぜ太宰はそこまで死にたくなってしまったのだろうか? 山崎富栄でなければ、いったい誰が太宰を入水に追いやったのか? ──答えは、おそらく税務署の職員である。 太宰の家に、武蔵野税務署から一通の手紙が届いたのは、昭和23(1948)年2月末のことだった。 津島美知子が書いた『回想の太宰治』によると、封筒には「前年の所得金額を二十一万円と決定したという通知書と、それにかかる所得税額十一万七千余円、納期限三月二十五日限りという告知書」が入っており、太宰夫妻は驚がくする。 前年に開始された確定申告というシステムを太宰は知らず、もしくは知っていても知らないフリをしてしまい、経費などの申告を一切しなかったから、収入すべてが課税対象となっていたのだ。 また、太宰は原稿料や印税などはすべて自分で管理していた。妻の美知子があずかり知らぬところで太宰は収入の大半を飲み代、タバコ代、クスリ代などに浪費しており、もう11万円(現在の価値にすると1100万円ほど)も残っていないと泣きじゃくったのである。 太宰の死は、山崎富栄宅にて執筆中の太宰を税務署の職員が来訪し、二人きりで何かを語り合った直後の6月13日であった。太宰が書いた最後の恋文は、妻の美知子あてで、文面は「美知様 お前を誰よりも愛してゐました」だったが、あまりの気障さに本人が辟易としたのか、ゴミ箱に丸めて捨てられていた。 「人間失格!」と吐き捨てたくなる光景ではあったが、衝撃的な入水自殺のインパクトも手伝って、無頼派作家・太宰治の多くの作品は好調なセールスを重ねた。また、太宰の死後も、美知子は懸命に税務署と交渉を続け、納税額を11万7000円から10万円ほどに減らしてもらえたそうだ。 『斜陽』執筆の取材料として、ヒロイン・かず子のモデルとなった太田静子には、約束どおり太宰から1万円(=現在の100万円ほど)が支払われていたという。回想録の類いでは一切、夫の女性関係については触れない誇り高き正妻・美知子だが、これも経費として計上できていたのか気になる。 ・・・・・・ 【もっと読む】破滅型な『火宅の人』のイメージとは裏腹に…最後の無頼派・檀一雄が家族だけに見せた「やさしい素顔」 【さらに読む】破滅型な『火宅の人』のイメージとは裏腹に…最後の無頼派・檀一雄が家族だけに見せた「やさしい素顔」

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