なぜスーパーのタコはどれも《モーリタニア産》ばかりなのか…現地にタコ漁を広め、英雄となった日本人の「壮絶な生きざま」

日本人の食卓に馴染み深いタコだが、実は輸入品が大半を占めている。なかでも、輸入量の約3分の1を占めるのが「モーリタニア産」。アフリカ大陸北西部に位置するモーリタニアは長い海岸線を有し、日本の約3倍の面積を誇るが、国土の約9割はサハラ砂漠だ。 そんな「砂漠の国」でタコ漁業を一大産業にまで導いたのは、たった一人の日本人。モーリタニア政府から国家功労賞も授与された伝説的な人物として彼の地で知られているのが、中村正明さん(77歳)である。 広島県で生まれ育ち、1970年代に海外青年協力隊員としてモーリタニアへ。現地の人々に近代的な漁法を伝え、宗主国フランスから独立して間もないモーリタニアに外貨収入の道筋をつけた。その功績をたたえ、モーリタニアでは子供に「ナカムラ」と名付ける国民も多いという。 現在は東京都内で暮らす中村さんに、波瀾万丈の人生を取材した。 大好きな海での仕事を求めて 「偽物ではない“本物”の人生を送りたかったんじゃ」 都内の自宅を訪れると、中村さんは筆者の目を見ながら静かにそう語った。 広島県山間部に位置する三次市上川立町で生まれ育ち、両親から買ってもらった鉱石ラジオに齧り付つくのが日課だった。ニュースを通じて知らない「世界」に触れるのが楽しみだったという。 幼少期のある日、ラジオから流れてきた「インドで数百万人もの餓死者が出た」というニュースに驚愕した中村さんは、遠く離れた地で過酷な生活を送る人々に何かできることはないかを真剣に考えるようになった。 奨学金を受けて入学した鹿児島大学では水産学部に入学し、既成の党派や集団に属さないノンセクト・ラジカルとして政治運動に明け暮れた。卒業後は大好きな海での仕事を求め、福岡家宗像市の漁師宅に住み込み、飯炊き当番から働き始める。 海上では理論ではなく、実践的な技術を叩き込まれた。そのまま漁師として海で生きることも考えたが、たまたま目にした海外青年協力隊のチラシがその後の波瀾万丈の人生を決めることになった。 海外の人々を助けたい——幼少期の夢に従い、協力隊に応募。初めての任務地はケニアだった。漁師としての経験を活かし、異国の地での漁業を教えた。 言葉も地理もわからず、知り合いもいない 中村さんがモーリタニアに降り立ったのは1977年、28歳のときだった。本人が振り返る。 「今でこそ笑い話ですが、当時はモーリタニアとモーリシャスを間違えていたんです。はっきり言ってほとんど知らない国だった。調べてみたら砂漠ばかりだから慌てましたよ(笑)。 飛行機を乗り継いでようやく空港に着いたものの、現地は紛争中だった。厳戒態勢のため、空港施設から外出することはできなかった。 水産庁から私の監視役として派遣された人は体調不良になり私を置いて帰ってしまいました」(以下、カッコ内は中村さんの発言) 異国の地に一人取り残された中村さん。言葉も地理もわからず、知り合いもいなかった。 「案内人のいない中、ようやく空港近くのホテルに入ると『おい、ナカムラ』と、突然声をかけられました。日本にいた頃によく通っていたインド料理店のマネージャーに偶然出会ったのです。彼がそのホテルで勤務していたのですね。彼と会えたことで通訳の問題も行動の自由も手に入れることができ その当時のモーリタニアは協力隊員を受け入れていませんでした。仕方なく水産庁の調査員の立場で現地滞在しながら様々な可能性を探っていきました」 モーリタニアは水産資源が極めて豊富であることから、中村さんは漁業技術を伝える活動をしようと考えた。 「モーリタニアは遊牧民が多く、定住者はごく一部でした。常に移動していますのでどこにいるのかもわかりません。海岸線をジープで走り、部族集団の族長達を探し出すことから始めました。 彼らの文化として、客人には数日間は食事と寝床を提供するというしきたりがあります。ちなみに、5日過ぎても居座る客人は殺されても文句は言えないというしきたりもあります(笑)。 私は族長を見つけ、丁寧に挨拶をし、数日間の滞在を繰り返しました。こちらが伝えたい簡単なフレーズを翻訳してもらった紙片を持って、漁業が自活のために非常に有意義であること、私が技術を教えることなどを口説いてまわりました。 まずは漁師を育てなければなりません。当時、現地の漁法は浜から海に入り、棍棒を振るって魚を獲るという非常に原始的なものでした。逆を言えば、それで魚が獲れるくらい資源が豊富だったのです」 中村さんは異国の年若い外国人として現地の部族集団を訪ねる日々を続けた。自分の顔を覚えてもらうことが目的だったが、純粋な思いは時に現地から反感を買うこともあった。 「族長達に船に乗せる人を選んでもらって、明け方に浜で待っていたのですが誰も来ませんでした。時間の感覚が日本人とは違うのですね。仕方なく目覚まし時計を買い与えました。約束を守らない若衆にはきつく叱りました。 当時は私のような外国籍の若者に対する不信感も大きかった。暗闇で棒を持った数人に待ち伏せされて脅されたこともありました。沿岸部に居住していたイムラゲン族は比較的温厚な性格ですが、命の危険を感じることは何度もありました。 モーリタニアは独立して間もない国です。文化風習の違う部族が入り混じり、国民の連帯もありません。周辺国との紛争も絶えずまさに混乱状態でした。そんな彼らに、一方的に資源を奪いに来たわけではなく、漁業を通じて彼らの自活の道筋を立てることが自分の目的なのだと口説き続けました」 飢饉に苦しむ現地の人々のために 大西洋に面したモーリタニアの海岸線長は約750キロ。沖には大陸棚が広がり、深層部からの湧昇流の発生によりプランクトンの多い栄養豊富な好漁場となっている。 1970年代、日本の大手水産会社はモーリタニア沿岸部で大型漁船団を組み、乱獲を繰り返していた。砂地が多く岩礁帯の少ない立地から海底の獲物を根こそぎにするトロール漁法は、環境破壊を招き、多くの国民から“泥棒”と蔑まれていた。 日本に対する反感もある中、中村さんは粘り強く部族長達に説得を続けたのだ。中村さんの熱意に対し、次第に理解を示した族長達から若者を借り出すことに成功する。 「最初に集まったイムラゲン族の若衆は5人でした。彼らにとっては漁船に乗ることも、沖から浜を眺めることも初めての体験でした。操舵の仕方、テグスの結び方、網の入れ方などを教えると目の色が変化していくのがわかりました。 試しに刺し網を入れると、赤フカ(小型のサメの一種)が網がはち切れんばかりに獲れました。そのサメをたまたま港近くにいたイタリアの水産会社に売ったのです。現金取っ払いにして、彼ら若衆達に獲った魚が現金収入に直結するのだということを目の当たりにさせました。 刺し網など見たこともない彼らにとって、それはまさに魔法のような代物だったと思います。彼らが使いやすいように刺し網を現地仕様に改良しました。魚は面白いように獲れました。特に赤フカはイタリアでは高級魚のようですぐに売れました。ほとんど現金を持たなかった彼ら遊牧民達の私に対する視線も徐々に変化していったわけです。 現地には漁協のような団体もありません。手始めに漁協作りから始めました。魚を獲るだけでなく、保存や流通経路の獲得など、収入を得るためにやることは山ほどありました。日本からの援助物資は、現地のことをあまり調べないまま送られてくることも多く、税金の使い方としては疑問を感じることも多々ありました」 当時、日本はモーリタニアに対し、食糧などさまざまな援助を無償で行っていた。見返りに日本側が求めたのは、沿岸部での漁業許可だ。日本政府のサポートを受けた水産会社は多くの船団を現地へ送り巨額の利益を得ることになった。 無償援助のなかには漁船などの船やカヌー、冷蔵倉庫、製氷機などがあったが、現地には船を操舵できる技術者もいない。小型のカヌーも現地仕様には程遠く、冷蔵庫は小さく、製氷機があったところで淡水がない。このように日本政府の支援物資は現地事情に合わないものが多かったが、それを使用できるようアレンジするのもまた中村さんの役割だった。 「干魃が続き、大規模な飢饉の起きていた際に日本から食糧援助で送られたのは、約50トンのジャガイモでした。長期保存のできないジャガイモは到着時には腐っていて、泣く泣く海に捨てました。 同じく緊急援助された50〜60トンほどの古古米は、紙袋のまま港に放置されたままになっていました。金網の向こうでは飢餓で亡くなった住民の遺体が転がっています。送るだけで配る人間がいない。 そこで大統領に掛け合って、3割の価格で国内業者に引き取らせ流通させるように進言しました。それがバレて外務省からはものすごく怒られました。でもね、目の前で飢えて死んでいく人がいるのに放置されたままのコメを見捨てることが忍びなかった。どうにかして彼らの口に入れる方法はないかと考えたのです」 いかに現金収入につなげるか 中村さんはたった一人で山積する問題を片付けることになった。遊牧民である彼らに漁業を教え、いかに現金収入へと繋げるか、そのことに腐心する日々が続いた。 「最初の数年間は漁師の数を増やし組織作りをしながら、漁具の使い方や漁法を教え、保存の仕方とともに、いかに流通させて現金収入につなげるかというところを集中して行いました。やがて、イタリアだけでなくスペインなど多くの国籍の会社と妥当な価格で取引をするようになりました。 海で獲れた魚を買い手に計量してもらい、伝票をもらって後に現金でもらうというスタイルです。それまで豊かな資源があっても指を咥えて見ているしかなかったモーリタニアの人々は、組合を作ることなど考えたこともありませんでした。一人ではなく組織になったことで流通網も広がり値段交渉も有利に進めることができるようになりました。外国籍の船にモーリタニアの漁師を乗せて巻き網を使ってアジなどの漁も行えるようになりました。規模も質も段々と向上していったのです」 当時のモーリタニアでは魚を食べる習慣はあまりなかった。市場もなく必然的に流通先は外国となる。 モーリタニア政府の助力も得て、海外の水産会社に直接販売することなどもできるようになった。スペインとの合弁会社では1ヵ月に数百万円の利益を上げるまでに。中村さんは漁業組合を通じて、部族集団全体に富が行き渡るようにした。 だがその後、まったく予期せぬ展開を中村さんを待ち受けていた。 後編記事『「モーリタニア産のタコ」を一大産業にした日本人がいた…!現地で3000人超の漁師を育てた伝説の人物が明かす「タコが砂漠の民を救うまで」』では、モーリタニア人がタコに出会った日を描く。 【つづきを読む】「モーリタニア産のタコ」を一大産業にした日本人がいた…!現地で3000人超の漁師を育てた伝説の人物が明かす「タコが砂漠の民を救うまで」

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