時として「作品が作者を超える」ことは実際にあるといいます。人間だからこそできる「書くことのマジック」は何に起因しているのかを考察します。 37年間、書くことで生きてきたーー批評家の佐々木敦さんが、「書ける自分」になるための理論と実践を説き明かす『「書くこと」の哲学 ことばの再履修』(講談社現代新書)。本記事では同書の冒頭「本書について」より抜粋・編集したものです。 「書くこと」の不思議 ある期日(締め切り)までに、ある長さの文章を仕上げなくてはならない。テーマやお題はともかくとして、まったくのゼロからいきなり原稿用紙やキーボードに向かって書き出す人はかなり少ないのではないかと思います。やはり何かしらの準備が必要になる。 この「準備」については第二部であらためて考えてみたいのですが、ここではまず、どんな準備をしたとしても、それは具体的に書き始めることとイコールではないということを確認しておきたいと思います。 実際に書き始めた時には、それはもはや「準備」ではなく「本番」です。書き出す前にあれこれ考える、それは何をどのように書くのかという全体の内容や方針の問題から、書き出しや結末/結論のあり方、個別の文章の細部まで、さまざまでありえるわけですが、書く前に頭の中で考えていることと、いざ書き始め、書き進めてゆくという作業/行為の間には、明らかに断層があるように思えます。 もちろん、あらかじめ考えたとおりに執筆を進めていく人もいると思いますが、それでも「準備」と「本番」は完全に同じにはならないことがあるし、書いてみたら「思ってたのと違う!」と思ってしまうこともあれば、書いていくうちに自然と違っていく場合もある。そしてそこに「書くこと」の不思議さがある。「本番」が「準備」を上回ることもあるし、逆に「準備」に「本番」が遠く及ばないこともありえる。段階に切り分けてみると、考えることと書くことはやはり別だし、別であるからこそ、面白くもあるし、やりがいもあれば、困ってしまうこともあるわけです。 書くという作業/行為のうちには、書き手の意図や意志だけではどうにもならない、こちらの手に負えない動物のようなところがあるのです。飼い慣らそうとしても限界がある。そして書くことの秘密も、そこにあります。考えたとおりにしか書けないのなら、執筆がすでに確定された思考の転写でしかないのなら、「本番」がけっして「準備」を超えられないのなら、書くことは文字通りの「作業=労働」になってしまいます。 私はよく、これは言語表現に限らないことですが、時として作品が作者を超えることがある、という話をします。考えた通りにしか書けないのなら、そのようなことは起こりません。自分でもどうして書けたのかわからないようなスゴい作品がなぜか書けてしまうということは、しばしば実際に起こります。そしてそれはやはり、考えたことを書く(だけ)ではなく、考えながら書き、書きながら考えるという、ある種のフィードバック回路(増幅装置?)によるのではないかと思うのです。 試行錯誤するから傑作が生まれる 考えながら書き、書きながら考えるとは、私たちが何かを書いている時に常にしていることです。それは何も特別な行為ではありません。考えたままに書けるなら、思考(演算処理)がそのまま文章として出力されるのなら、人間は生成AIと同じになってしまう。 思うに、ヒトとAIの重要な違いのひとつは、試行錯誤です。言語表現の場合は、ミニマムには一文字単位でトライアル&エラーを繰り返しながら、私たちは文章を書いてゆく。最初から最後まで一度も書き損じたり書き直したり書き換えたりしないでひとつながりの文章作品を書き終えることは、人間にはほぼ不可能です。 そして、むしろそこにこそ「書くこと」のマジックが、作品が作者を超える可能性が潜んでいるのだと私は思います。私たちが書き進めている時に脳内で何が起こっているのかは医学や科学の領域ですが、まだワープロがなかった時代なら、清書前の原稿用紙はいわば思考の軌跡の記録でもある。そこにはまさに、考えながら書き、書きながら考えたプロセスが生々しく刻印されている。原稿用紙に手書きではなく、ワープロ以後の時代になっても、やっていることは基本的に同じです。 * 本記事の抜粋元、『「書くこと」の哲学 ことばの再履修』(講談社現代新書)は、読み終えると、なぜか「書ける自分」に変わっている!ーーそんな不思議な即効性のある、常識破りな本です。ぜひお手に取ってみてください。 書くことは考えることーー あなたはなぜ「書けない」のか? たった140字で言い切る練習場…「書くことの瞬発力」を鍛えるXの使い方