「日本製鉄はパンドラの箱を開けた」 USスチール「4兆円」買収劇の“美談”に潜む無数の「重大リスク」とは

 絶望の淵からの逆転勝利ともいえようか。「USスチールの完全子会社化」という1年半越しの悲願を叶えた日本製鉄。しかしトランプ大統領をも心変わりさせるに至った“大盤振る舞い”の代償は大きく、投資家が抱く不安材料は山ほどある。美談の影に潜むリスクを日鉄は乗り越えられるか。(安西巧/ジャーナリスト)  *** 【写真を見る】「もし梯子を外されたら……」日本製鉄にとって「リスクとなる人物」  1年半にわたって揉めに揉めた日本製鉄による米USスチール買収がようやく決着した。退陣直前の米大統領ジョー・バイデン(82)が買収禁止命令を発したのは2025年1月3日。筆者を含め「買収成立はもはや非現実的」と見切る向きが少なくなかったが、ディール巧者でオポチュニストの現大統領ドナルド・トランプ(79)と買収に執念を燃やす日鉄会長兼最高経営責任者(CEO)の橋本英二(69)が“常識”を覆した。 苦難は続く?  だが、CEOの大願を成就した日鉄にとって明るい未来が開けた訳では決してない。新たな大統領命令で始まった出直し交渉(トランプによると、合意までに日鉄からの提案を「4回断った」)で、追加投資額が当初計画に比べ10倍規模に膨れ上がったのに加え、ディール成立の可能性が高まるにつれて値を下げ続けてきた株価はステークホルダーの間に広がる不安を象徴している。黄金株(拒否権付き種類株式)など様々な足枷を米政府に嵌められた日鉄にとって、USスチール買収は“パンドラの箱を開けた”に等しいのかもしれない。 トランプを心変わりさせた“カネ”  日鉄が米政府の不当介入に対する行政訴訟を起こすに至るまで拗れていた買収劇。その風向きが変わったのは4月上旬。交渉担当の日鉄副会長、森高弘(67)が米側に買収後のUSスチールに対する設備投資計画の増額を伝達すると、トランプは4月7日、対米外国投資委員会(CFIUS)に対しバイデン政権の判断で1度は却下した審査のやり直しを命じた。M&A(合併・買収)を縁談に例えるなら、「結納金を積み増すから結婚を認めて欲しい」との花婿の願いを花嫁の父が聞き入れた瞬間だ。  そもそも2024年1月31日、首都ワシントンで労働組合幹部との会合後「私なら即座に阻止する。絶対に」と日鉄によるUSスチール買収案件に立ちはだかったのは、まだ大統領候補だったトランプ自身である。バイデンの禁止命令に先立つ1年前だ。「世界で最も偉大な企業だったUSスチールが日本に売られようとしている」と買収反対を強硬に唱えてきたトランプを心変わりさせたのは言うまでもなく“カネ”である。  トランプが火をつけた米国内の反対世論を受け、日鉄は24年3月15日に買収後のUSスチールでは解雇や工場閉鎖を行わず、競争力強化のために14億ドル(約2千億円)を別途投資すると表明。それが8月29日には既存高炉の回収や熱延設備新設などでさらに13億ドル(約1900億円)を上乗せし、12月10日には買収完了後にUSスチールの米国の従業員に1人5000ドル(約72・5万円)、欧州の従業員に同3000ユーロ(約50万円)の臨時ボーナスを支給すると明らかにした。ボーナス総額は1億ドル(約145億円)の見込みとされた。14億ドルが27億ドルになり、さらに28億ドルへ増えていったわけだ。  そして、前述のようにトランプが政権復帰を果たして3カ月目の今年4月上旬、日鉄は破格の追加投資計画の提案を余儀なくされ、それが大統領命令の180度転換を促した。日鉄が差し出した小切手の総額はいくらだったのか……。 “大盤振る舞い”の裏で「株価急落」と「格下げリスク」  5月30日にトランプはペンシルベニア州にあるUSスチールのモンバレー製鉄所アービン工場に乗り込み、数千人の従業員を前に「日鉄が買収後に140億ドル(約2兆円)を投資する」と触れ「米国の鉄鋼業界史上最も大きい投資だ」と自画自賛。その後の記者団の取材では日鉄の投資額を「170億ドル(約2・5兆円)」と述べ、6月12日にも再び「170億ドル」と発言した。しかし、日鉄が6月14日に発したニュースリリースによると、買収承認の大統領令に関連して同社が米政府との間で締結した国家安全保障協定(NSA)には「日本製鉄が2028年までに約110億ドル(約1・6兆円)を投資する」と定めているとしている。  鉄鋼業界ウォッチャーのあるアナリストは「トランプ氏が敢えて自分が日鉄から引き出した成果を誇張している可能性も否定できないが、2028年までの『110億ドル』は確定分として、『140億ドル』や『170億ドル』は日鉄側が未確定分を含めて伝えた数字かもしれない」と推測する。いずれにしろ、当初は14億ドルだった追加費用が110億〜170億ドルと10倍規模に膨らんでいる。  6月18日に日鉄が払い込みを終えたUSスチール株の全株取得費用は約141億ドル(約2兆円)であり、これに1年半の交渉過程で膨らんだ追加投資分を加えると、実質的な買収総額は約251億ドル(約3・6兆円)から約311億ドル(約4・5兆円)に達する。日鉄の現在の株式時価総額は約2・9兆円(6月18日終値)だが、これには上場子会社の日鉄ソリューションズの持株評価額(25年3月末時点で日鉄の出資比率は63%。6月18日現在の日鉄ソリューションズの株式時価総額は約7530億円)などが反映されており、「日鉄単独の企業価値は株式時価総額より数千億円低い」(前出アナリスト)と見られている。  実質的な日鉄の企業価値を2・5兆円前後とすると、それより少なくとも1兆円以上は巨額の資金をUSスチールに注ぎ込むことになる。こんな橋本以下の経営陣の“大盤振る舞い”を投資家が不安視するのも無理はない。4月1日に3200円台に乗っていた日鉄の株価は、トランプがCFIUSに再審査を指示した4月7日に前取引日(4月4日)終値から10%下げ、2650円に急落。その後も頭打ちで、6月19日現在2766円にとどまっている。また、格付会社S&Pグローバル・レーティングは5月26日、日鉄によるUSスチール買収が実現すると「信用力には大きな負担になる」とし、負債中心の資金調達で買収した場合、現状「トリプルBプラス」の格付けは1〜2段階下げる可能性があると指摘。さらに追加投資が4兆円規模になれば、格下げは2段階にとどまらないとした。 トランプに梯子を外されたら……  投資家が抱く不安材料は山ほどある。高関税で恫喝し、米国への投資を誘い込む通商政策が続くのはトランプの大統領任期中。支持者の中には、大統領任期に制限を設けた合衆国憲法修正22条の改正を叫ぶ向きもあるが、現状ではあと3年半である。6月4日にトランプ政権は鉄鋼・アルミニウムの輸入品にかける追加関税を25%から50%に引き上げたが、米国内では既に輸入鋼材の値上がりで自動車メーカーが悲鳴を上げており、例えば、米ゼネラル・モーターズ(GM)は5月初め、2025年12月期(通期)に部品への追加関税の影響で費用が年間40億〜50億ドル(5800億〜7200億円)跳ね上がり、最終利益を20〜30%引き下げるとの業績見通しを明らかにした。  中国とのレアアース(希土類)を巡る交渉でも顕在化したように、トランプには強硬姿勢を見せても最後は怖気づいて方針を変える癖がある。英フィナンシャル・タイムズの金融担当記者ロバート・アームストロングによる造語「TACO」(Trump Always Chickens Out=トランプはいつもビビって退く)が昨今世界の流行語になっているが、自動車業界などの突上げで鉄鋼・アルミの高関税政策をトランプが放棄した場合、つまり梯子を外されて安価な外国製鋼材などが米国内になだれ込んだ時に日鉄には「Bプラン」が果たしてあるのか。 名目だけの「100%子会社化」  “トランプ・ファクター”だけではない。買収完了後、日鉄による110億〜170億ドルの追加投資によって、赤字が常態化しているUSスチールを再生できるのか。米商務長官ハワード・ラトニック(63)は日鉄との合意内容について6月14日にX(旧ツイッター)で言及。その中で、日鉄が表明した追加投資額「140億ドル」については金額削減や延期を許さないとしたほか、生産や雇用の国外移転はもとより、猶予期間のない工場の閉鎖や停止などにも拒否権を持つと説明。USスチールの取締役は半分以上を米国籍の人物にするなど、日鉄は人事権にも制約を受けるわけで、悲願の「100%子会社化」は名目だけで、実際は“雁字搦め”にされているように見える。  6月5日に世界鉄鋼協会が発表した恒例の世界粗鋼生産ランキング(2024年)で、日鉄は4364万トンの4位。1418万トンで29位のUSスチールを合算しても、2位のアルセロール・ミタル(ルクセンブルク)の6500万トンはもちろん、3位の鞍鋼集団(中国)の5955万トンにも届かず、1位の宝武鋼鉄集団(中国)の1億3009万トンの半分にも満たない。「アメリカ企業に巨額を投じるよりも対アジア投資に力を入れるべきだったのでは」との声は日鉄社内からも漏れてくる。  USスチール買収に会社を導いた橋本の取締役任期は、歴代経営陣の前例に従えばあと4〜5年、CEOの座は1〜2年内に現社長の今井正(62)に譲る可能性がある。トランプだけでなく、「世紀の買収」を主導した結果に責任を負うべき橋本にとっても、残された時間は限られており、しかも少ない。(敬称略) 安西巧(あんざいたくみ) ジャーナリスト。元日本経済新聞社編集委員。1983年早稲田大学政治経済学部政治学科卒、日本経済新聞社入社。主に企業取材の第一線で記者活動。広島支局長、編集委員などを歴任し、2024年フリーに。著書に『経団連 落日の財界総本山』『広島はすごい』『マツダとカープ 松田ファミリーの100年史』(以上、新潮社)、『さらば国策産業 電力改革450日の迷走』『ソニー&松下 失われたDNA』『西武争奪 資産2兆円をめぐる攻防』『歴史に学ぶ プロ野球16球団拡大構想』(以上、日本経済新聞出版)など。 デイリー新潮編集部

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