「子供と別れ淋しい」—。沖縄戦で亡くなった祖父が疎開先の家族に宛てた手紙です。戦後80年、家庭に眠る「戦争記録」を「news every.」の桐谷美玲キャスターが取材しました。 ■「当たり前の幸せが奪われた」 桐谷キャスターが向かったのは大阪市。 情報を寄せてくれた長崎久美子さん(60)に話を聞きました。 桐谷キャスター 「今回、情報を寄せて頂いたのはどういった思いから?」 久美子さん 「当たり前の幸せっていうのが戦争のために奪われた。そういうことがいっぱいあったということを知って頂けたらな。そういう気持ちから送らせて頂いた」 桐谷キャスター 「私も戦争を直接知っている世代ではないので、実物の手紙を見せて頂けるのは本当に貴重な機会なのでありがとうございます」 激しい地上戦が繰り広げられ、日米双方で20万人あまりが犠牲となった沖縄戦。久美子さんの祖父・郄井信次郎さんも軍に召集されました。 久美子さん 「祖父がひとりで写っている写真はひとつもなくて、おそらくこの真ん中がそうじゃないかなと」 桐谷キャスター 「おじいさまの顔が分かる方というのはいらっしゃらない」 久美子さん 「もういない、そうなんです」 一度も会ったことがなく、顔も分からない祖父・信次郎さん。沖縄県那覇市の電力会社に勤務していました。 家族は、久美子さんの祖母にあたる妻・キヨさん。疎開当時は30歳でした。久美子さんの母にあたる長女・久子さんは疎開当時3歳。叔父にあたる長男・喜啓(よしひろ)さんは生まれたばかりでした。1944年秋、沖縄の戦況悪化を受け、信次郎さんは妻子を大阪の兄の元へ疎開させました。 便せん3枚にわたる手紙。妻子が大阪へ疎開した直後、1944年11月2日に書かれたものです。 ■祖父からの手紙「子供と別れ淋しい」 「喜啓は元気ですか 久子も随分泣いて持て余した事でせう」「寝るに付け起きるにつけ 君等母子の事のみ考へ 月夜の空を眺め 淋しく本日を送り 今は君よりの詳しい便を首長に待って居ります」「当地の事は心配せぬ様 身体に気を付けて呉れ。お互 戦争に勝つ迄は頑張ろうではないか」(原文ママ) 疎開先の妻を励ます一方、胸の内を明かした言葉も。「子供と別れ淋しい」 ■「ある日突然、戦争に…」 桐谷キャスター 「とにかくお子さんや奥さんのキヨさんのことをすごく心配して気にかけていて、子供と離れてしまうつらさとか寂しさはすごく感じるところがあって、戦争で離れなきゃいけなくなったんだと思うとつらいですね」 久美子さん 「ある日突然戦争に巻き込まれていく。この手紙を書いた時の祖父の気持ちを考えると悲しくてたまらない」 桐谷キャスター 「うちも息子がもうすぐ5歳で、子供が成長していく姿を追うのが親としてはうれしいことだと思う。これだけ愛情深い信次郎さんだから絶対に目にしたかっただろうな」 家族を疎開させた後、軍に召集された信次郎さん。所属部隊の兵士はほとんどが住民で、飛行場の整備などの任務を行っていました。 そして、1945年4月2日。沖縄本島に上陸したばかりの米軍に部隊は壊滅させられました。信次郎さんが家族に手紙を書いた、5か月後のことでした。 ■「骨が見つからないだろうから…」 戦後、家族の元にかえってきた「奉公袋」。軍隊生活で必要な物を入れておくための袋です。 中に入っていたのは、信次郎さんの遺髪と爪。 久美子さん 「骨が見つからないだろうから、自分の体の一部を家族に遺すために、こうやって入れて持って行ったんでしょうね」 ■戦地で大切に…長男の髪の毛 さらに、「喜啓 産毛」と書かれた包み紙が。 信次郎さんは、生まれたばかりの長男・喜啓さんの髪の毛を戦地で大切に持っていました。 桐谷キャスター 「産毛を持って行かれてたんですね。ずっと一緒にいたかったでしょうね」「この袋に大事なものを入れてということだと思いますが、大事なものってこの袋だけじゃ収まらないですよね」 ■顔知らぬ父…「記憶がないからね」 生まれてまもなく、父・信次郎さんと生き別れた長男・喜啓さん。戦後すぐに、母・キヨさんも亡くなり、親戚の元で育ちました。 手紙は親戚から受け取り、大切に持ち続けてきました。 80歳となった喜啓さん。桐谷キャスターに信次郎さんへの思いを話してくれました。 桐谷キャスター 「喜啓さん、お手紙を初めて読まれた時、どういう思いでしたか?」 喜啓さん 「悲しかったな」「あまり父とか記憶がないからね」 顔も知らない父はどんな人だったのか—。親戚から話を聞いて思いを寄せてきました。 喜啓さん 「電線の仕事してたよ。台風とかきたら修理いかないといけないから。すごい人やなと思う。時々、思い出して涙が出たら止まらない時もある」「あんな戦争はもうしたらあかん」 ■亡き母の願い…「平和の礎で名前を見たい」 久美子さんの母にあたる久子さん。生前、ある願いを持ち続けていました。 久美子さん 「沖縄の平和の礎に祖父の名前が、郄井信次郎と刻まれているのを自分も見てみたいと言っていました。でも歩くことができなくなってしまい、とうとう連れていってあげることができなかった」 沖縄戦などの犠牲になった24万人あまりの名前が刻まれている、沖縄県糸満市の「平和の礎(いしじ)」。そこにある信次郎さんの名前を見たい—。母の願いをかなえられなかったことを、久美子さんはずっと悔やんできました。 久美子さん 「平和の礎に母も一緒に連れていってあげて、おじいさんの名前を見せてあげて、祖父が疎開船に乗せてくれたから母も無事で、こうして私も生まれてちゃんと命がつながっているよと、祖父にお礼を伝えられたらいいな」 ■沖縄へ…「ここでおじいさんが戦った」 今月、戦後80年を機に久美子さんが夫婦で訪れたのは沖縄県読谷村。信次郎さんの所属部隊の多くが戦死した場所です。 「梯梧之塔(でいごのとう)」と呼ばれる慰霊碑には、700あまりに及ぶ兵士たちの遺骨が納められています。 久美子さん 「祖父が見た光景はどんなだったろうなって、怖かっただろうな。まともな武器も持たされないで訓練もまともに受けられない状態で、一般市民だった人たちがいきなり米軍が上陸してくる恐ろしい場所に立たされたんだなと」 その後、久美子さんが向かったのは米軍基地のフェンスの前。信次郎さんが戦死したとされる場所は、基地の中にあるため近づくことができません。 久美子さん 「祖父が亡くなったと言われている壕がある。近づける所まで近づいて、ここでおじいさんが戦ったというのを見てみたかった」 ■全部奪われて戦争に…「覚えておかないといけない」 翌日、久美子さんが初めて訪れたのは平和の礎。母・久子さんが生前、最も来たがっていた場所です。ここで、祖父の名前を探します。 久美子さん 「あった、あった…ここや。信次郎さんここや、私のおじいちゃん。やっとこられた」 礎に刻まれた、祖父・郄井信次郎さんの名前。涙があふれました。 久美子さん 「無念な思いで大事な家族を残してある日突然、将来の夢とか希望とか幸せとか全部奪われて戦争に行くしかなかった、死んでいくしかなかったこと。私たちもちゃんと覚えておかないといけない。私たちの子供や孫の代、もっとその先も、戦争なんて絶対にしてほしくない」