「書くこと」は「読むこと」と表裏一体でもあるといいます。今回は、「読者」としての自分が「書く力」を強化してくれることについて述べていきます。 37年間、書くことで生きてきたーー批評家の佐々木敦さんが、「書ける自分」になるための理論と実践を説き明かす『「書くこと」の哲学 ことばの再履修』(講談社現代新書)。本記事は同書より抜粋・編集したものです。 読者は「全能」である 他人の文章をまったく読むことなく自分のことばを書き始めた人は存在しません。この意味で、私たちは誰もが「書く人」である以前に「読む人」、すなわち読者です。 「読者」とは、読み始めたからといって読み終えるとは限らない、いつ読むことをやめてしまうかもわからない(いつやめてもいい)特権的な存在です。前にも触れましたが、読むという行為は映画館で映画を観たり劇場で演劇を観るのとは違って、アナログでありながら読む者が時間的な操作のほぼ全面的な権利を持っている。同じところを何度も読み返すこともできるし、前に戻ってもいい。つまらない箇所は飛ばしてもいいし、途中で本を放り出してしまっても(読み通すことが義務なのでなければ)構わない。 だからこそ、そんな身勝手で全能(!)の読者に、読み始めたからには読み続けさせ、読み終えさせるように書かなくてはならない。こう言うと、いわゆるページターナー(早く続きを読みたくさせる本)を目指せと言っているみたいですが、これは必ずしも技術に属する話とは限らない。 いや、技術と言えば技術なのですが、ページを捲るのを止まらなくさせるテクニックとは、結局のところストーリーテリングのことを指している場合が多いのではないか。そのような作劇術は『ハリウッドに学ぶ〜』みたいな指南本が日本でも大量に出版されており、かなり売れてもいるわけですが、これはあくまでも私見なのですが、多くの読者を惹きつける「ストーリー」はとっくの昔に飽和しており、ほぼ完全にパターン化されてしまっていると思います(だからこそ「指南」が可能になるわけです)。それはそれでいいのだけど、読者が読むことをやめられず、最後まで読み通させる「技術」はストーリーテリングだけではない。物語とは別の、ことば自体の力というものがあると思うのです。 「わがままな読者」だからわかること 読者としての私は、大変にわがままです。私はさまざまなジャンルの本を読みますが、なかなか面白くならないと思ったり、うまくいっていないと感じられたりしたら、途中で読むのをやめてしまいます。読みたい本、目を通すべき本は、他にも山ほどあるからです。 私は「気に入った本を何度も再読する」ということがあまり好きではありませんが(似ていてもいいから別の本を読んだほうがいい)、かといって単に多読であればいいわけでもない。何冊読んだ、などという自慢は馬鹿馬鹿しい。この世に書物(やその他の読み物)は無限に存在しており、一冊の本/読み物には(一文で書かれているのでなければ)複数の文章が格納されている。全部読まなければ読んだことにならないというルールはどこにもない。いや、ルールというか常識みたいな感覚はどこかにあるのかもしれませんが、そんなことを気にする必要はない。 読書の愉しみや意味は通読とは別の次元にある、私はそう思っています。 しかしこれは、読みたいところだけ読めばいい、必要な部分だけ読むので構わない、ということとも少し違います。知識や情報を得るためだけに読むのなら別ですが(しかしそれならば今やインターネットやAIの方が明らかに利便性は高いと思います)、そういう明確な目的意識とは無関係に、どういうわけか読み続けてしまい、気づいたら読み終えてしまっている本がある。かといって、それは「物語」の魅力(のみ)によるわけではないし、いわゆる「読みやすい」からということでもない(いささか逆説めきますが、私は「読みやすさ」と「読ませる技術」は反比例する場合もあると思います。あまりにも読みやすいと、最後まで読まなくても読んだ気になれてしまう)。 ならば、それは何なのか? それがことばの力です。そして、読者という身勝手な他者に、自分が書いたことばを、読み進め、読み続け、読み終えさせる「力」もまた、他ならぬ「読者」としての自分を利用することによって発現し、強化することが出来ます。 * 本記事の抜粋元、『「書くこと」の哲学 ことばの再履修』(講談社現代新書)は、読み終えると、なぜか「書ける自分」に変わっている!ーーそんな不思議な即効性のある、常識破りな本です。ぜひお手に取ってみてください。 書くことは考えることーー あなたはなぜ「書けない」のか? 「上手く書く」とはどういうことか? 「文章は短いほど良い」マニュアルから抜け出せた人だけが獲得できること