【前後編の後編/前編を読む】「私が“サレ妻”になるなんて!」 それは逆ギレではないか…43歳夫が“おままごとみたいな生活”に限界をおぼえるまで 篠原穣一さん(43歳・仮名=以下同)は、25歳のときに3歳年下の友里江さんとつきあい、結婚。お嬢さん育ちの友里江さんだったが、実は優秀で自立心の強い姉への嫉妬など、実家ではどこか居心地の悪さを覚えていたようだ。そんな実家から支援を受けながら、一男一女に恵まれた家庭生活。毎日手伝いに来る義母と妻、子供たちの関係を見ているうちに、穣一さんはある種の孤独を感じ、妻との間には溝があるような気がしてきた、と語る。 *** 【写真を見る】「夫が19歳女子大生と外泊報道」で離婚した女優、離婚の際「僕の財産は全部捧げる」と財産贈与した歌手など【「熟年離婚」した芸能人11人】 娘が幼稚園に通っていたころだから、8年ほど前だろうか。早めに帰宅して娘と話していたら、「おばあちゃんとアイスを食べた」と言う。よかったねえ、ママはと聞くと「ママはお仕事」と話す。 「本当だとしたら、妻の人間性を疑うしかありません」と穣一さんはいう 「妻はそのころはもうアルバイトもしていませんでしたから、お仕事って何だろうと思いました。ちょうど息子の世話をしていた妻に、どういうことと聞いたら適当にごまかされてしまった。それ以来、妻の“お仕事”が気になってたまらなかった」 とはいえ娘の“証言”はあやふやだし、たとえ義母が知っていたとしても答えてはくれないはず。家庭の平和を思えば、このまま暮らすしかないと穣一さんは思っていた。 娘が小学校に入ったとき、夫婦そろって入学式に参列した。その日の夜、穣一さんは「長い間、お疲れさま。まだ大変な時期は続くだろうけど、とりあえずのけじめとして」と妻にネックレスをプレゼントした。妻は笑顔を見せたが、「さ、明日も早いから寝るね」と寝室に引き上げた。 「子どもが生まれてから妻は子どもたちと寝るようになって、寝室は別。娘が小学校に入って、小さい部屋をひとつ与えました。夫婦の寝室に妻が戻ってくるかと思ったら、妻は別の部屋を片づけてそこにベッドを運び込んでいた。一緒に寝ないかと声をかけたんですが、『あなたのいびきで寝られないもん』と笑いながら去ってしまった」 「肌の触れあいがほしい」 会話を拒否するわけではないし、プレゼントも一応喜んではくれた。寝室が別になって8年ほどたっていたが、穣一さんが誘えば、妻は年に数回、夫婦の営みにも応じてくれた。だが妻がそういう関係を楽しんでいたとは思えない。 「妻にとって僕が初めての男だったと思います。最初からそういうことが楽しくなかったのだとすれば、それは僕の責任ですよね……。結婚生活を続けるほど、そういう思いは強くなっていった。性は愛情のすべてではないけど、夫婦の絆のひとつになり得るはずだと思っていた。その希望はかなわないんだとはっきりわかりました。僕にも性欲はありますし、それだけではなく妻との肌の触れあいがほしかった」 その後、何度となく妻と話し合おうとしたが、友里江さんは話し合いさえやんわりと拒否する。実際、子どもたちもまだ小学校低学年で手がかかったし、そのころ彼女の母親が骨折して入院していたこともあり、穣一さんも話し合おうとするのをやめた。ただ、あの日からネックレスは常に友里江さんの首元を彩っている。それがかすかな希望に見えた。 義姉の“暴露” 「2年前、義父が大病をしまして。70代半ばにさしかかったところで、義両親ともに健康上の問題が出てきた。義姉も帰国して、これからのことを家族で話し合っていたようです。もちろん僕は呼ばれなかった」 義姉とは結婚式で挨拶を交わしただけだったが、このときはゆっくり話す機会があった。そこで義姉から思わぬ暴露話が次々と出てきた。 「思い出しても傷つきますが、妻には腐れ縁みたいな男がいたんです。結婚後、中学時代に憧れていた先輩に再会し、誘われるがままに関係をもってしまったと。そのことは母親には言っていたようです。母親は自分名義のワンルームマンションを友里江に提供した。人目につくホテルに行くより、会うならその部屋で会えということ。母親は妹には甘いんですよと義姉はためいきをついていました。さらに結婚後、友里江はずっと親から生活費をもらっていたとも義姉は言うんです。義姉は義姉で、自分は何ももらっていないのに妹ばかりずるいという思いがあった。だから僕に暴露したと」 義姉は父親からの生前贈与を期待していたようだ。それに巻き込まれるのは嫌だと思いながらも、想像もしていなかった事実を聞かされて、穣一さんの思考能力は停止状態となった。 そしてヤケになり… 「義姉は帰国しても実家には泊まらず、ホテルに滞在していました。そのホテルのバーで飲みながら話を聞かされ、『部屋でもう少し話を聞いて』と言われて部屋に行きました。そして彼女と男女の関係になった。そんなつもりはなかったんですが、この10数年は何だったんだと思うと体中からすべての力が抜けて、ヤケになってしまったんです」 情けなさと怒りをぶつけるように関係を持った。あんなに激しい感情が自分の中にあったことが不思議なほどだった。 「深夜、帰宅すると妻が起きてきた。義姉から聞いたことを伝えると、妻は黙って聞いていました。認めるのかと言うと、『何も言いたくない』と。あげく、『おねえちゃんと関係したでしょ』と逆ギレされました。『おねえちゃんはいつもそうだった。自分のほうがすぐれているからって、私の悪口を友だちに吹き込んで友だちを奪った。勝手に留学して、本当は大学を出たら帰ってくるはずだったのに帰ってこなくて。親のことは私任せで』と切れ切れに文句を言い続けていました。もしかしたら義姉にはめられたのかもしれないと思ったけど、義姉を拒否できなかったのは僕の失態だった」 「私はサレ妻になっちゃったじゃない」 妻は、「あんたのせいで、私はサレ妻になっちゃったじゃない! どうしてくれるのよ」と叫んだ。穣一さんには理解しがたい「キレ方」だった。 「妻は自分で自分に“サレ妻”というレッテルを貼り、それに衝撃を受けていた。考え方がおかしいだろと思ったけど、『おねえちゃんはきっとあなたと寝たって言いふらす。そうすれば私はサレ妻だってバカにされる』と思い込んだみたいです。僕としては、それ以上に妻に男がいたこと、お金の問題などが重要だったんだけど、完全に問題点がすれ違っていて、話すに話せない状態でした」 義姉によれば、「私は妹にそんな競争意識はもっていなかった」というのだが、いつしかふたりの間には誤解による大きな溝ができたらしい。義姉は「あの子は、愛されても愛されても愛されたりないように見えた。だから私はさっさと家を出た」という。 その間のことは穣一さんにはわからない。想像もしようがない。親がいなくなることなど想像もせずに今の年齢になってしまった友里江さんの気持ちを、どう受け止めたらいいのかわからない。 例のペンダント、実は… 友里江さんが話し合いを拒否しているので、穣一さんは今まで通りの生活を続けている。義姉はすでに住んでいる国に行ったが、いずれは帰国することも考えているという。 今はただ、気弱になった義母と、闘病しながらもなんとか気持ちを強くもとうとする義父の支えになろうと穣一さんは考えている。何とか家庭を壊したくない一心だと彼は言うが、どちらが悪いかという話になったとき、少しでも責任を軽くしたいのかもしれないと穿った見方もできる。 子どもたちも高校生と中学生になった。両親の間の空気がおかしいのはとっくにわかっているだろう。だが、それも受け止めた上で、彼は友里江さんに普通に話しかけるようにはしている。 「ただ、もうひとつわかったのは、娘が入学したときに妻にプレゼントした例のペンダント。義姉は、友里江のその彼氏のことを知っていて、『友里江は同じペンダントを彼にねだったの。彼にもらったほうを身につけているみたいよ。あなたがあげたのは売っちゃったのかも』と言ったんです。それが本当かどうかはわからない。僕は義姉のことも信じていない。でも本当だとしたら、妻の人間性を疑うしかありません」 孤独だと穣一さんはつぶやいた。こんな孤独感は味わったことがない、と。誰を信じたらいいのか。そもそも友里江はどうして自分と結婚したのか。 「ものごとには優先順位がある。友里江にとって今は親のこと、子どもたちのことで精一杯なんだと思う。だからそれを静かに見守るしかないなと。事態は変わっていくだろうし、そのときに何か結論が出るかもしれない。いずれにしても、この結婚生活はいつかは終わる。僕らが共白髪で笑い合うことはない。それだけはわかっています」 最近、自宅近くの地域猫と仲よしなんですよと彼は言った。お互い、ほんの数分、慰めあっているのかもと言った彼の顔は、妙に翳りが強かった。 *** 振り返れば「始まり」から、夫婦2人は“ズレ”ていたのかもしれない——。穣一さんが違和感をおぼえるようになっていったその過程は【記事前編】で紹介している。 亀山早苗(かめやま・さなえ) フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。 デイリー新潮編集部