【前後編の前編/後編を読む】寝室は別、ふれあいも無し。それでも「贈ったネックレス」をつける妻に希望を見ていた…のに 暴露された“真実”と逆ギレ 男の心理は複雑だ。今の時代でさえ、女性に求めるものは「かわいさ」や「素直さ」だったりするのに、実際にそういう女性とつきあうと「重い」と言う。頼られなければ拗ねるし、頼られすぎると「うっとうしい」となる。女性も似たような感覚はあるだろうが、男性の「女性に期待することの理想と現実」にはかなり大きな齟齬があるように思う。 篠原穣一さん(43歳・仮名=以下同)は、大学を出て3年目の25歳のときに3歳年下の友里江さんとつきあい始めた。 【写真を見る】「夫が19歳女子大生と外泊報道」で離婚した女優、離婚の際「僕の財産は全部捧げる」と財産贈与した歌手など【「熟年離婚」した芸能人11人】 「僕の一目惚れです。僕はイベント系の会社に勤めていたんですが、あるイベントのアルバイトに来たのが彼女。学生時代、けっこういろいろな女性とつきあっていたので、女を見る目はあると思い込んでいた。そんな僕が彼女の前では、ろくにしゃべることもできないくらいになってしまって」 「お嬢さん育ち」の女性と結婚したものの—— 穣一さんは当時を思い出して少し笑顔になった。よほどいい思い出なのだろう。ただ、スタッフがアルバイトをそう簡単に誘うわけにはいかなかった。彼自身も、まだまだ下っ端だったからだ。 「友里江は5日間の予定でバイトに来ていました。よく働いてくれる人で、今後も機会があったらバイトに来てほしいと言っておけと上司に言われたんです。4日目だったかなあ、たまたまふたりで話す時間があったので、上司の言葉を伝えました。そうしたら『うれしいです。こういう仕事は本当に楽しいから』と明るい笑顔で答えてくれた。『あなたの笑顔は人を幸せにしますね』なんて思わずキザなことを言ったら、『時間があったら食事にでも誘ってください』って。誰にでも言うのかなと思いつつ、このチャンスを逃してはいけないと、『本気にしますよ』と言ってみた。すると『ぜひ』と」 穣一さんと友里江さん、それぞれの生い立ち こんなにトントン拍子に進んでいいのか、彼女は軽い女なのかと思ったが、会ってみると友里江さんも穣一さんに好感をもっていたことがわかった。友里江さんは大学4年生だったが、就職が決まっていないと嘆いてもいた。 「父親は一流企業の上層部、母親の実家も裕福なようで、就職しなくても生活できる環境だったみたい。とはいえ本人は『就職できないなんて、まるで私が無能みたいで恥ずかしい』と。プライドが高いなあと思ったけど、そのプライドの高さは僕がそれまで周囲の人たちに覚えたことのない感覚だったので、少し新鮮ではありました」 穣一さん自身は、東京近郊のサラリーマン家庭で生まれ育った。兄と弟にはさまれた次男で、「兄は勉強がめちゃくちゃできて、すんなり国立大学に進学。弟は自由人で、家には寄りつかないけどクリエイターとして早くから自活していた」ため、自分だけが凡人だと思いながら成長した。 「母は3人兄弟を平等に扱ってくれたけど、僕は父には疎まれていました。兄とは3歳、弟とは2歳違いですが、父は兄を無条件にかわいがり、弟のことは無条件におもしろがった。僕が今の会社に就職したとき、父はため息をつきながら『いいのか、そんな人生で』と言ったんですよ。それがすごく心に残っている。おまえは才能も才覚もないつまらないヤツだと言われたも同然。気にしないように生きてきたけど、何かあると、あのときの父の蔑むような目が思い出されるんです。だから裕福な家庭で、しかも両親について生き生きと楽しそうに話す友里江が羨ましかった」 親との葛藤など感じたこともなく生きている目の前の友里江さんが、穣一さんには貴重な存在のように思えたという。同時に、どうして自分なんかに好感をもってくれたのか不思議でならなかった。 「食事を終えたあと、彼女がもう一軒と言い出してバーへ行きました。彼女は、『実は私には姉がいるんですけど、彼女が優秀すぎて』と言い出した。あ、彼女にも葛藤があったのかと思っていたら、お姉さんは優秀すぎてさっさと親元を離れて留学してしまったそうなんです。だから両親はよけいに友里江をかわいがっていたのでしょう。友里江も親の愛情を一心に受け、それをよしとしている」 結婚=解放に喜ぶ妻 いろいろ事情はあるとしても、お互いに好意をもっているのは確か。3度目のデートのとき、彼は彼女につきあってほしいと言った。すると彼女は、「どうせなら結婚しない?」とストレートに身を乗り出した。 「まだ結婚できるほど収入がないし……と思っていたら、『大丈夫。私もアルバイトするし、結婚するなら就職しなくてもいいし』って。就職できない言い訳として結婚を持ち出すのかと反発心はあったんですが、逆に彼女がかわいそうにも思えてきて」 結局、26歳のときに23歳の友里江さんと結婚した。友里江さんの両親は少なくとも穣一さんには感じよく接してくれ、「こんな娘と結婚してくれてありがとう」と何度も頭を下げられた。両親にとっても、「就職できない娘」が家にいるより、「どうしても結婚したい相手に出会ったため、社会に出ないまま結婚してしまった娘」のほうが世間的に通りがいいと思ったのだろう。穣一さんは今はそう理解しているが、当時はなんとなく熱に浮かされるように「結婚というゴール」を目指してしまった気がすると話す。 「友里江は結婚して解放されたと言っていました。たぶん、親からの愛情の裏にある姉との比較とか、それによる姉への嫉妬とか、どこか家族の中で居心地の悪い思いをしていたんでしょう。それらから自由になれたんだと思う。学生時代の延長のようにアルバイトをしながら、どこか楽しそうでした」 新居は友里江さんの父から提供された。父がもっている不動産のひとつに住まわせてくれたのだ。家賃はなんと1万円。「無料だと気を遣うだろうから」という配慮だった。 「友里江の金銭感覚が不安だったので、生活費を渡すという形にしましたが、彼女は案外、うまく家計をやりくりしてくれたみたいです。料理はほとんどできなかったですね。でも努力はしていた。それが僕にはうれしかったから、なんでもおいしいと食べました」 おままごとみたいな生活だったが、友里江さんとの生活は楽しかった。バイト先で出会ったおもしろい人の話や、料理にまつわる失敗談を聞いていると、忙しくなってきた仕事の疲れが癒えた。 なんだか溝があるような だが半年もすると友里江さんは、新生活に少し飽きてきたとつぶやくようになった。 「飽きるって言っても、結婚生活は日常生活ですからね。彼女には結婚式がイベントで、その後の新生活はおもしろかったのかもしれないけど、それが日常になるとつまらなくなってきたのかもしれません」 そんなとき妊娠がわかった。また新しい“イベント”ができた。妻はその人生最大のイベントを楽しみにしていたようだった。生まれたのは男の子。友里江さんは子どもに夢中になった。 「実家から彼女のおかあさんも毎日手伝いに来てくれていました。僕の負担にならないよう、義母は夕方には帰っていったようです。僕が帰ると、義母が作ってくれた夕食が並んでいた。ありがたかったけど、実家べったりになっているのがちょっと心配でした。妻は『今だけよ。あなたは忙しくて育休なんてとれないでしょ』と。確かにそうでした。必死に仕事を覚えるべきときに結婚してしまったので、ほんの少し上司や先輩の目が厳しかった。だから結婚後はかえって仕事を重視、ようやく『若くして結婚するのも悪くない。早く落ち着いて仕事に集中している』という評価を得られるようになっていたんです」 さらに2年後には娘が誕生。人生が豊かになるというのはこういうことかと実感した。仕事も家庭も順調、30代はもっとがんばろうと決意した。 「ただ、今思えば、その裏にどこか孤独感を覚えていました。妻と義母、妻と子どもたちの緊密さに比べて、妻と僕の間にはなんだか溝があるような気がしてならなかった。どうしたらその溝が埋まるのかもわからない。ある意味でお嬢さん育ちの妻に感じていた、かわいいけどかわいそう、みたいな気持ちが僕の愛情の原点だったのかもしれません。妻が母親に助けられながらも、どんどん母として強くなっていくのが不満だったのかなあ。いや、でも母として強くなるのはいいことだと思っていたし……」 できる限り、子育てには参加していたと彼は語る。「不満」ともいえない違和感が、彼の中で大きくなっていった。 *** 穣一さんが抱く「妻」とのなんとなくの溝。【記事後編】ではその理由が明かされるとともに、「私が“サレ妻”になるなんて!」と怒鳴られるまでのてん末を紹介している。 亀山早苗(かめやま・さなえ) フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。 デイリー新潮編集部