死を前にして、ジタバタしないためにはどうすればいいか。ヒントは宗教にある。宗教社会学と終末期医療、それぞれの分野の碩学に聞いた。 橋爪 大三郎 はしづめ・だいさぶろう/1948年、神奈川県生まれ。社会学者。大学院大学至善館特命教授。同リベラルアーツ・センター長。主な著書に『はじめての構造主義』『はじめての言語ゲーム』など 久坂部 羊 くさかべ・よう/1955年、大阪府生まれ。小説家・医師。大阪大学医学部卒業。2003年『廃用身』で作家デビュー。2014年『悪医』で第3回日本医療小説大賞を受賞 現代人は死を受け入れられない 橋爪 いまの時代、生の大事さだけが強調され、死が軽んじられていると思います。 久坂部 ええ、日本は先の戦争で、特攻など命を粗末にしすぎていました。逆に今は医療が進歩しすぎたため、無駄な延命治療をして最期を迎える人が多い印象を持っています。死にたくないという欲望と執着に囚われて、命が大切にされすぎているんですね。 でも、医療には実際、死を消し去る力はありません。それを理解しようとせずに、過度の期待を抱いているから、余計な失望が生まれてしまう。生に執着せずに死を受け入れるには、宗教への理解が役立つはずです。宗教にはあるがままに死と向き合う知恵や教えが、無尽蔵にありますから。 橋爪 死は自然の摂理です。それを受け入れられないのは、人間としてまだまだ完成していないということなのです。 死を受け入れるには、命以上に大事なことがあるのだと知らなければならない。宗教では神や覚りが、自分の命や人生に意味を与えてくれます。自分を超越する存在を通して自分を理解すれば、死を受け入れられるのです。 久坂部 私は医師として多くの人を看取ってきましたが、末期において医療は延命の助けになるものでしかなく、残念ながら死を受け入れるための教えをもたらしてはくれません。今の日本人は老いや死に対し、成熟した考えを持っていませんね。世の中には「人生100年」「生涯現役」という、生きることが一番の価値だと惑わせるような聞こえのいい情報であふれています。 橋爪 治療をすれば長生きできる、とだけ考える人は、死ぬまで自分の命に執着し続けるでしょう。昔は、執着を捨てて人として成熟しろ、と誰かが怒ってくれた。今そういうことを言うと、面倒なことを言うなと煙たがられる。 死や老いで悩み、「下手に死ぬ」人 久坂部 かつては、どうやって命以上の価値の存在が伝えられていたのでしょうか。 橋爪 宗教が現れる前は、皆が小さい共同体の中に住んでいた。各人の生き方はすべてあらかじめ共同体の価値観に基づいて決まっていました。共同体の中で与えられた役割に応じて、自分の人生をまっとうすればよかった。伝統社会では、集団の価値が自分よりもつねに重かった。 その後人類は、争いや民族移動などの大混乱の中で、救いとなる宗教を編み出し、結束することを学びました。そこでは個人の命よりもそれぞれの宗教の神や教義が優先されました。個人の命が何よりも優先されるようになったのは、近代になってからです。 久坂部 まさに、死や老いで悩み、「下手に死ぬ」人が増えたのは、近代以降、医療が進歩したからです。それまでは、死に対してある種の諦めがありました。死は自然なもので、忌み嫌う対象ではなかったですし、核家族化が進む前は、家族が年の順に亡くなっていくことが当たり前でした。 ところが、とくに戦後、医療が進歩してから、病院で死ぬことが多くなり、日常から死が切り離されていきました。治療をすれば助かるという期待も増え、死から目をそらすようになってしまった。 橋爪 死を考えるとは、自分の人生を考えるのと同じです。いずれ死ぬのを前提に、幼少期から今までを振り返る。「自分は十分に生きてきたか」「自分の人生はこれで良かったのか」と問いかけてみましょう。迷惑をかけてしまった人へのお詫びや、お世話になった人への感謝がまだ済んでいないと気付くでしょう。死を恐れるより先に、考えることできることがたくさんあります。 久坂部 死は恐ろしいですか。 橋爪 はい。未経験な出来事だし、痛くて苦しいかもしれない。そもそも死に方を自分でコントロールできない。 宗教を学び、命より大切なものを知ろう 久坂部 私も幼少期は死が怖かったですが、今では、死への恐怖はありません。これまで看取った患者さんは、死を拒み続けた人や、悠然と死んでいった人など、じつに様々です。しかし、ご臨終の死体は、等しく無表情でした。 このような経験を経て、死とはまったくの無である、という認識を得ることができました。死による自己の消滅への恐れも、結局は生きている間だけの話で、死ぬとそれすらも無くなってしまう。つまり、死そのものへの恐怖は、妄想なのです。仏教で言う「莫妄想(妄想するなかれ)」です。 橋爪 死を怖がる「タナトフォビア」の人と最近対談しました。死んで無になるのが怖いと言うんです。無にならず、永遠に生き続けるのもキツイと思うよ、と返事しました。無になるなら、楽なんです。死を必要以上に恐れないことも大事です。 一神教では、死後に誰もが復活し、永遠に生きると考えます。そしてこれは楽しいことになっている。 久坂部 私は道教の「無為にして為さざる無し」や「上善は水の如し」といった、逆らわずに物事を受け入れる大切さを説く言葉が好きです。仏教でも「少欲にして足るを知る」という言葉がありますね。このように、2600年も前から先人によって執着から離れることの大事さが説かれてきたわけです。日々の生活の中で、「足るを知る」という気持ちや、感謝する気持ちを持っていれば、死に直面しても上手に死ぬことができるようになると思います。 橋爪 ただ宗教を、そう信じると楽になる便利な教え、と思っているうちはまだまだです。宗教の教えはすべて、迫害されたり弾圧されたり、けっこうぎりぎりの場所から発せられた言葉なのです。それが長い時代の試練を潜り抜け、現在に残った。 宗教に興味を持つきっかけは何でもかまいませんが、信仰に深まるには、宗教の歴史や背景も学ぶほうがよいのです。よし、そうした信仰を自分の生き方の軸にしよう。覚悟をもって一歩を踏み出す勇気が肝心です。 後編記事『上手に死ねない日本人へ、最後に伝えておきたいこと』へ続く。 「週刊現代」2025年08月04日号より 【後編】上手に死ねない日本人へ、最後に伝えておきたいこと