夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さん。これまでの取材データから、俳優、歌手、タレント、芸人……第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第26回は、夫婦漫才の重鎮、宮川大助・花子さん。夫婦で乗り越えてきた様々な人生ドラマに迫ります。 【写真を見る】「夫婦マンザイ」だけでなく「ど突きマンザイ」でも有名な芸人夫婦といえば 次々と病魔が… 芸能人はどうして病気で倒れる人が多いのか——。 おおっぴらになるので悪目立ちしているだけかもしれないが、ともかく、時々に芸能人の病気は大きな話題になることは確かだ。 最高の相方 2013年にしゃべくりの夫婦(めおと)漫才では当代随一、宮川大助・花子の「夫婦半畳記」を日刊ゲンダイで連載した。07年に大助(75)が脳内出血で倒れてから6年たっていた。この時から遡ること25年前の88年、妻の花子(70)は胃がんを手術している。 夫婦ともに大病を乗り越えた……周囲はもちろん、本人たちもそう思ったはずだ。 13年当時、大助・花子は「吉本ナショナルDreams」というマラソンチームを結成して国内外のマラソンを走っていた。連載翌年の14年のこと。AKB48内に、「日刊ゲンダイ」としてマラソン部を作ってもらった。グアムで行われるインターナショナルマラソンを走ってもらい、それを紙面化するためだが、14年4月の大会には大助・花子のチームも参加していた。 花子は元気一杯だが、大病を経験した大助は大丈夫なのか? と見る向きが多かった。実際、この時に大助が完走したのかどうかは、記録がない。 ハーフを走ったチームのメンバーで、ランナーズ・がんばれゆうすけは、「市民ランナー」として活躍した川内優輝を兄に持ち、現在は久喜市議の川内鴻輝に続く準優勝となった。 「ウチのゆうすけは、しゃべりより走りが得意なんですわ」 師匠の花子はこう言ってゆうすけを祝福し、一緒に写真に収まった。 そんな大助・花子が立て続けに病魔に見舞われるのは、この3年後からである。 必ずセンターマイクに戻る まず、17年に大助が腰部脊柱管狭窄症で入院・手術、感染症で再入院・手術、さらにグラム陽性菌敗血症で再々入院する。 同年、二人は秋の叙勲で紫綬褒章を受章するが、翌18年には花子が倒れる。 3月に行われた寛平マラソンを走っていた時、腰に激痛が走って動けなくなり、形質細胞腫瘍と診断され、19年1月には多発性骨髄腫との診断を受ける。同年6月には、「余命1週間。治っても生涯、車椅子と腹を括ってください」とまで言われた、まさに致命的なものだった。 しかし、この時点では病気のことは秘して19年12月に記者会見を開き、闘病中であることだけを公表した。花子の師匠はチャンバラトリオのリーダー、「ドンちゃん」こと山根伸介。2015年5月にグループ解散を表明すると同時に自身の肝臓がんを公表し、同年11月に死去している。 この時、花子は「師匠、必ずセンターマイクに戻ります」と手を合わせた。 センターマイクとはホームグラウンド、なんばグランド花月のステージのことだ。大助の献身的な介護もあり、必死にリハビリを続けた結果、22年4月に大助・花子が3年ぶりに復活し、師匠と交わした約束通り、センターマイクに戻ってくる。 二人は94年に『愛をみつけた:大助・花子のおやオヤ日記』(朝日新聞出版)、22年に『あわてず、あせらず、あきらめず』(主婦の友社)という共著を出し、さらに24年には大助が花子を介護する様子などを書いた共著『なにわ介護男子』(同)を出版し、これら一連の闘病を明らかにしている。 夫婦漫才といえば、かつては鳳啓助・京唄子、春日三球・照代らがいるが、平成以降では大助・花子が自他ともに認めるトップだろう。連載を担当したのは、その後に長く続いた夫妻の闘病以前のことではあるが、連載の中で、大助・花子の夫婦漫才の真髄を読み取ることができる記述がある。 鳥取県出身の大助は、三菱電機勤務を経験してから松竹芸能に入った。一方の花子は大阪府警に入り、警察官に。桂文枝の追っかけなどをするうちに吉本入りした。 75年に出会って結婚するが、芸人として食えず、二人でガードマンをやった時期もあった。そのうち娘のさゆみが生まれ、漫才師になることを夢みて大阪に出てきた大助は、花子を説得して夫婦漫才を始めた。 大助が、師匠で浪曲漫才トリオのリーダーをしていた宮川左近に「嫁はんと夫婦漫才を組みます」と報告した際は激怒され、4時間廊下に正座させられた。それでも二人の意志の固いことを確認した左近師匠が「花ちゃんは、ほんまにそれでええんか」と言って許してくれたという。 「花ちゃんにしゃべらせたら?」 ネタを考え台本を書くのは大助で、当所、しゃべくりを担当していたのも大助だった。だが、ネタを考える能力はあっても、大助にしゃべくりの才能はいま一つ。天才的なセンスがあるのは、大阪生まれで根っからの関西人である花子の方だった。 このことを的確に指摘したのは、大ベテランの夢路いとし・喜味こいし師匠。「花ちゃんにしゃべらせたらどうや?」とアドバイスされた。大助は述懐する。 「これや! と思って次の日からすぐにスタイルを変えたらこれが大当たり。1年後には今宮戎神社こどもえびすマンザイ新人コンクール奨励賞、その1年後にはABC漫才落語新人コンクール最優秀新人賞をいただけた」 花子はいとこい師匠のアドバイスを「余計なおせっかい(笑)」と思ったそうで、著書でも触れていないが、これが大助・花子の転機になったことは間違いない。 大助は当初、病気になるほど漫才で花子を追い込んだことを今も反省しているが、花子はそれでも漫才に引き摺り込んで人気者にしてくれた大助に「漫才に誘っていただき、本当にありがとうございました」と繰り返し語っている。 センターマイクに立つ時に花子が車椅子で登場すると、それにあわせて大助も用意された椅子に座って漫才をやる。これぞまさに「座・マンザイ」だという。 思わず「座布団一枚!」と声が出そうだ。 峯田淳/コラムニスト デイリー新潮編集部