水木しげるさんからあふれ出た「戦死者の話」…怪奇に近い体験、「片腕しかなくさず幸運」だった

家族の記憶<3>水木しげると長女・尚子さん 次女・悦子さん(上)  史上最多の犠牲者を出した第2次世界大戦が終結して間もなく80年となる。  戦争体験者が年を追うごとに減っていく中、最も身近な存在である家族は体験者の生きざまや思いをどのように受け止め、語り継ごうとしているのか。家族に刻まれた戦争の記憶をたどる。 ◇  漫画家の水木しげるさん(本名・武良茂、2015年に93歳で死去)は、21歳で南方の戦地に送られ、部隊全滅後、爆撃で左腕を失うという凄惨な経験をしている。作品に描く以外、家族に多くを語ることをしなかったその人が晩年、変わった。戦争のことばかり繰り返し語り、膨大な数の付箋を脈絡もなく書斎に貼り付けた。戦地や戦友の名、そして、なお描き残したことがあるというかのように、<戦死者の話 かく>と走り書きされていた。 「お前も死ね」  長女の原口尚子さん(62)、次女の水木(武良)悦子さん(58)とも、幼い頃に戦争の話を父親から聞かされた記憶はない。戦地での話はきまって、仲良しになった島の住民や食べ物のこと。「いつもニコニコしている片腕のないお父さん」に壮絶な過去があることなど想像もつかなかった。  第1次世界大戦後、ドイツの植民地だった南洋諸島は、赤道以北が日本、以南は豪州などに統治が委任された。水木さんは、この時期に生まれている。1941年の対英米開戦後、日本軍は赤道以南の島々にも侵攻したが、多くが連合軍の反撃にさらされた。43年11月。豪州領ニューブリテン島に築いた拠点ラバウル防衛のために送り込まれたのが、二等兵の水木さんが所属する連隊だった。  ラバウルの現地司令部は、敵陣に近い南西方面のズンゲンへと部隊を差し向け、さらに奥地のバイエンへ水木さんら10人ほどの偵察要員を送り込む。そこを急襲された。  歩哨番を交代し、海の見張りについた水木さんを除き、山側の兵舎にいた全員が死亡。水木さんは敵側につく部族に追われ、服を脱いで海を泳ぎ、蚊にたかられながら密林を逃げ惑った。帰還して待っていたのは、上官の罵倒だった。<なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、お前も死ね>(『水木しげるのラバウル戦記』)  空襲が日を追うごとに増えた。しかしマラリアを発症した水木さんは逃げられず、爆撃を食らった。軍医の判断で左腕が切断された。44年6月のことだ。 増えていく書斎の付箋  復員後は、紙芝居制作などで日銭を稼ぐ暮らしが続いた。生々しい戦争体験を描いた「総員玉砕せよ!」を発表したのは、漫画家として成功した後の73年だ。陽気な父しか知らなかった悦子さんは、「読んで1週間ほど打ちひしがれた」。  戦争体験を語ることもなかった水木さんが、戦地の記憶をこぼし始めたのは、80歳にさしかかる頃だ。兵士の遺体を葬る穴があったと突然しゃべり出す。戦友たちの顔が頭から離れないと語る。同じ夢の話も繰り返した。戦友に置き去りにされる夢だ。書斎の付箋も増えていった。  「漏れ出ないよう抑えていた感情が、年を取って一気に流れて出た感じでした。わずか2年ほどの体験がここまで人を支配するとは」(尚子さん)。付箋の一枚には、<歩哨の順番を代わってくれといった人>と書かれていた。見張りを交代した兵士のことなのか、何か急な変更があったのか、定かではない。 「人の死を悲しんでいる暇さえない」  水木しげるさんが育った故郷・鳥取県境港市の中心街は、水木さんがまちおこしに協力して以来、「ゲゲゲの鬼太郎」にちなんだモニュメントや、関連商品を扱う店が目白押しだ。さながら水木漫画のテーマパークの趣さえある。  水木さんが存命だった2003年に開館した水木しげる記念館も、当初は妖怪中心の展示だった。しかし昨春、老朽化に伴う建て替えを機に内容は一変した。尚子さんが、「人間・水木しげるを知ってもらう施設に」と働きかけて、戦前から戦時の個人史に大きなスペースが割かれ、晩年にあふれ出た思いを凝縮したかのような強烈な展示に切り替わった。  非凡な美術センスがにじむ習作を紹介する少年期の一角を抜けると、戦時に入る。<生きて“未来”というものにありつくことは“夢”><あと一、二年すれば確実に“死”がくる、ということだけしかわからない時代>(『妖怪天国』)  水木さんは二十歳を迎え、徴兵検査に合格した。死を強く意識し、ニーチェや聖書などを貪(むさぼ)るように読んだ。展示された青年期の手記には、絶望と虚無のあわいで揺れる姿が見て取れる。<毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何(な)んだ哲学が何んだ><こんな所で自己にとどまるのは死よりつらい。だから、一切を捨てゝ時代になつてしまふ事だ>(『出征前手記』)  間近で仲間が死に、生死の境をさまよい、左腕を失った。壮絶な経験について取材を受けた水木さんが、怪訝(けげん)な顔をして聞き返したのを尚子さんは覚えている。「人の死を悲しんでいる暇さえない場所にいて、片腕しかなくさずに帰ってこられた、その幸運が分からんのですか」  復員後、紙芝居の道に入り、36歳で貸本漫画家になる。武勇伝や美談の戦記物も手がけた。編集者もそれを求めた。「食べなきゃいけない。自分の描きたいことを描いていられない。戦争を体験した自分と、戦後を生きていく自分を切り分けていたんだと思います」(尚子さん) 「いくらおもちゃでも許せない」  小学校低学年だった悦子さんが、手りゅう弾の形をした花火を見せたことがあった。「本物はどうやると爆発するのか」と興味を持った近所の子から預かり、戦争を知る父親に代わりに尋ねたのだ。人一倍やさしい水木さんがそのときだけは激しく怒った。「これは人を殺すものだ。いくらおもちゃでも許せない」  水木さんが戦争体験を忘れることはなかった。生きて帰れた偶然もだ。急襲時に、兵舎から離れた場所で見張り番をしていた件だけではない。逃げ惑う真夜中の密林で奇妙な“壁”に遭遇し、命拾いをしている。自身の経験と歴史を重ね描いた「昭和史」(1988年刊行開始)で水木さんはこう再現している。  <コールタールが少し溶けかけたかんじで押してみると 指が入った>。どうしても前に進めず、眠り込んだ翌日の昼、その先を見ると断崖の縁だった。<“ぬり壁”に出会わなかったら>……。漫画にも描いた妖怪に救われた。そう考えるしかないほど、水木さんにとって、戦地を生き延びた幸運は、「怪奇」に近いものだったのだ。  水木さんの死後、尚子さんらは、残された書類の中に「総員玉砕せよ!」の構想ノートを見つけた。登場人物の基になる兵士の顔がずらりと描かれている。戦友の顔が頭から離れたことはないと語った通り、水木さんは一人ひとりを思って筆を走らせ、作品をつくり上げていた。瀕死(ひんし)の兵士は最後につぶやく。<ああ/みんなこんな気持で死んで行ったんだなあ/誰にみられることもなく/誰に語ることもできず……ただわすれ去られるだけ> ◇ 編集委員 清水美明、編成部 十河靖晃、デザイン部 沢田彩月が担当しました。

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