戦後、ソ連で銃殺刑にあった曽祖父の足跡を調べている女子高校生がいます。理不尽に命を奪われた生涯を通して伝えたい思いとは? 宇山茉志(うやま・まゆき)さん、16歳。浜松市内の高校に通う2年生です。 (宇山さんの同級生) 「クラスで目立つ感じではないけれど、優しくて物を忘れたときなどに貸してくれる」 授業が終わると真っ先に先生のもとへ。自らお願いして、終戦後のソ連や満州の歴史を教えてもらっているのです。熱心に歴史を学ぶのには“ある理由”がありました。 (宇山 茉志さん) 「これがひいおじいちゃんの禄郎(ろくろう)さんの写真です」 調べているのは曽祖父にあたる禄郎さんの軌跡です。明治45年生まれ、東京の学校でロシア語を学んだ後、戦時中の1939年に満州へ。国策会社である「満州電信電話」で政治部長を務めました。 こちらは禄郎さんが1941年に出版した「チエホフの一生」 (禄郎さんの本の冒頭より) 「少しでもチエホフ臭いなと皆さんが感じてもらえたら嬉しい限りです」 ロシア人作家・チェーホフの生涯をつづった本を翻訳したもので、禄郎さんはロシア文化を深く愛していました。 人生が暗転したのは終戦後の1945年11月。家族で中国のハルビンに滞在中、諜報活動を行った疑いでソ連に連行されます。妻・代志枝さんと生まれたばかりだった娘の冬実さんは2人で帰国。帰国後はソ連からの引き揚げ船が入る京都の舞鶴に何度も通いましたが、禄郎さんとの再会は果たせず、その後届いた公報には「ハバロフスクの収容所で戦病死した」と書かれていました。 しかし2000年になり、家族のもとに突然、ロシアの最高検察庁から「名誉回復証明書」が送られてきます。証明書によるとハルビンからソ連のハバロフスクに連行された禄郎さんは、さらに取り調べを受けるため、約6000km離れたモスクワに護送されます。そして、終戦から1年8か月後の1947年4月、銃殺刑にあったのです。亡くなったのは35歳の誕生日を迎える前日でした。 (祖母 冬実さん) 「父は戦病死だと思っていたもんですから、銃殺だったとは思ってなかったんですけれども。亡くなったのは悔しいけれど、名誉回復もしたし、良かった。」 禄郎さんの娘である祖母の冬実さん。茉志さんは3年前から祖母を訪ね、禄郎さんの足跡について聞いています。きっかけは13歳の誕生日に起きた“戦争”でした。 (宇山 茉志さん) 「私の誕生日、2月24日がロシアがウクライナに侵攻を始めた日であり、何か戦争や平和について考えなければいけないのかなと、祖母に話を聞くようになりました。」 多くの命が失われる現実を目にして80年前、戦争に翻弄された“ひいおじいちゃん”の生涯を知りたいと思うようになりました。調べるうちに自分と“共通点”があることもわかってきました。 (禄郎さんの手紙) 「チャイコフスキーのレコードと代志がいれば、どこへでも行く。」 戦時中、こうしたためた手紙を妻に送っていた禄郎さん。チャイコフスキーの曲でバレエを踊っている茉志さんは、ロシア文化を愛していた“ひいおじいちゃんとの縁”を感じたといいます。 (宇山 茉志さん) 「禄郎さんはロシアで亡くなってしまったのですが、ロシア文学や、ロシアの文化というものをとても愛していて、ロシア文化の1つであるクラシックバレエというものを今、私が踊っているので、何か共通点というものを感じていて、ロシアで先祖代々繋がっているのかなっていう風に思いました。」 禄郎さんが連行されたソ連について調べるため、茉志さんはある男性のもとをたずねました。 (宇山 茉志さん) 「初めまして」 (加藤 源一さん) 「いらっしゃいませ」 (宇山 茉志さん) 「宇山茉志と申します。よろしくお願いします」 (加藤 源一さん) 「どうぞ」 100歳を迎えた加藤源一さんです。加藤さんは19歳で軍に召集され満州へ。終戦後、ソ連軍の捕虜としてシベリアに連行され、過酷な労働を強いられました。 (加藤 源一さん) 「南京虫(トコジラミ)で寝られないので、全部脱いではたいて、ボロボロ落ちるけどね。それでやっと寝る。(遺体を)裸にしちゃって外に放り出す。小屋にみんな入れて、情けないですよ、本当に。」 シベリアには57万人あまりが抑留され、約5万5000人が祖国の地を踏めずに亡くなりました。加藤さんが帰国を果たせたのは終戦から2年後でした。禄郎さんと同じハバロフスクに連行され収容所ではロシア語の通訳をしていました。“ひいおじいちゃん”との接点がないか、たずねます。 (宇山 茉志さん) 「宇山禄郎という方はご存じですか?」 (加藤 源一さん) 「ちょっと聞いたことがないんですけど、シベリアで情報機関の人が銃殺や死刑になっているということは聞いたことがある。」 (宇山 茉志さん) 「ロシア語を勉強されていた方は加藤さんの他にもいた?」 (加藤 源一さん) 「それはいない。通訳していたことも“あまり言わない方がいいよ”と。ちょっとロシア語が話せると何か秘密のつながりがあるのではないか。そういうことがものすごくあった。だから通訳ができても黙ってろと。」 禄郎さんのことは知りませんでしたが、加藤さんが打ち明けた“ソ連での壮絶な記憶”が胸に刻まれました。さらにその生涯を調べるため7月、茉志さんは母親とともに京都の舞鶴へ。禄郎さんの妻・代志枝さんが夫との再会を願い何度も通った場所です。 シベリア抑留の歴史を伝える記念館で、語り部の女性に聞いたのは“禄郎さんの墓”について。銃殺刑にあったにもかかわらず、モスクワの墓地には禄郎さんの名前が刻まれた“墓”が残されています。 (母・志祉さん) 「銃殺される前の写真も」 (語り部) 「ありますか?」 (母・志祉さん) 「あったんですよ」 (宇山 茉志さん) 「ロシアにお墓も…」 (語り部) 「不思議に思いません?銃殺した方のお墓をつくって、記録を残しているということはどういうことですか。普通なら日本人が何らかのかたちで亡くなったのならそのままですやん。何か胸に使えるものはソ連側に何かあったんと違いますか。人を傷つければ何か自分にかかってくるね、悲しいとか苦しいとか、なんかその思いがありますので。それがお墓というものになったんと違いますかね。」 (宇山 茉志さん) 「今までそういう観点で考えたことがなかったので、なんか胸に迫るものがあります。」 (母・志祉さん) 「本当はそれを代志おばあちゃんに知らせたかったね。お墓があるのはこういうことだったよと。」 (宇山 茉志さん) 「泣けてくるね…泣けてくる。」 舞鶴から戻った茉志さんはある作業に取り掛かっていました。禄郎さんと妻・代志枝さんの生涯を描いた本を書くことにしたのです。今年中に書き上げその後、出版社を探すつもりです。 (宇山茉志さん) 「特に若い世代の方に読んでもらって、平和について改めて考えてもらったり、自分の先祖について考えるきっかけになればいいなと思っています。この国に殺されたから、殺されてしまったから、あまりいいイメージを持っていないということではなくて、これから自分たちが未来にどう平和をつなげていくのかということを考えるべきだなと思います。」